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雑記帖 No.270

新堺史発見(4) 古地図から読み解く堺(後篇)

「元禄2(1689年)「堺大絵図」を読む」から

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※1989年堺市政100周年を記念して朝日新聞販売店連合会が復刻した『堺大絵図』。


淀川から枝分かれて南行し、大阪城の北辺をかすめて西へ向かい、大阪市のど真ん中を流れる大川は、中之島に突き当たると二つに分かれ、北の流れを堂島川、南の流れを土佐堀川と名前を変えます。二本の川に挟まれ、いかにも水都大阪といった景観の中之島にある大阪大学中之島センターでは、懐徳堂春季講座「元禄2(1689)年「堺大絵図」を読む」と題された講演が行われていました。
講師は歴史地理学を専攻される神戸大学教授・藤田裕嗣さん。


江戸の地図に匹敵する高いレベルで作られた精度の高い「堺大絵図」ですが、見る前に注意しなければならないことを前篇では教わりました。それは「堺大絵図」は、江戸時代の近世都市堺の地図であり、大坂夏の陣で全焼した中世の堺とはまったくの別物だということです。
統一政権が無いがゆえに、混沌とした中世という時代を反映して、おそらく中世の自由都市堺も、道が入り組んだ猥雑な都市だったのではないか。環濠も近世から現代までのイメージのように都市の全周を囲ったものではなかったのではないか? 
旧市街区を良く知る人ほど目から鱗の藤田さんの指摘です。旧市街区を訪れたり、暮らしたりしていると、目にする町並みが江戸を飛び越して「自由都市堺」のイメージと二重写しになってしまう。ですが、今の堺旧市街区の町並みは、整理されて別物に生まれ変わった近世堺に原型を求められるものなのです。
そして、さらに言えば江戸時代の堺と一口にいっても、長い歴史の変遷があり、それは「堺大絵図」の変化にも見て取れるのでした。
そんなことを踏まえて、後篇は近世都市堺成立後のお話です。


■経済から堺大絵図を見る

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▲講師の藤田裕嗣さん。


藤田さんの研究のオリジナリティな部分は、景観に目配せするだけでなく、商品流通や経済機能にも考察を及ぼすものだそうです。
今も旧市街区に残る堺の町家は、間口が狭く奥の深い縦長のいわゆる「ウナギの寝床」形の敷地をしています。この奥に比べて狭い間口は、間口の広さによって税金が決まっているから税金対策としてこうなったのだとされていますが、江戸時代を通じてそうだったのかは疑問のようです。
この「堺大絵図」についても、藤田さんならではの経済からの視点で考察がされています。藤田さんが注目したのは、堺の糸割符制度でした。

江戸時代初期、中国製の生糸は重要な輸入品でした。江戸幕府は安定した輸入のために、京都・堺・長崎の特定の商人に糸割符仲間を作らせ貿易を独占させました。後に大坂、江戸も加わり五都市の商人が割符糸を扱いますが、当初は堺の地位は京都や長崎よりも上位だったそうです。糸割符商人であることが堺の強みでもありました。


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▲割符糸と間口に相関はなかった。


藤田さんは、地図が作られた前年・元禄元(1688)年の割符糸の資料と「堺大絵図」を対照します。割符糸を下附された登録人の土地の区画の間口と、糸の斤量を図表化したところ、割符糸と間口との関係は無関係だとわかったのだといいます。
「(近世堺を地割した)地割奉行風間六右衛門の時代(1615年)と、(堺大絵図が出来た頃の)元禄元(1688)年では変わってしまったのです」
長い江戸時代は、平和だけど大きな変化もない停滞した時代と考えがちでしたが、経済という視点を入れてみると、違った姿が見えてくるようです。
新堺史シリーズ(1)(2)で取り上げた学芸員矢内一磨さんは、高度成長する大坂とは違う、成熟都市として堺を捉えていましたが、成熟の中身も細かく見ていけば、時代とともに大きな変化があったようです。

さて時代と共に起きる変化は、「堺大絵図」そのものにも、直接的に痕跡を残しています。地形上の変化に対応して、地図に貼り紙をすることで更新していたのです。


■貼り紙をはがしてみる
短辺でも3mという巨大な「堺大絵図」は簡単に作れるものではありませんし、現代のようなコピー機のある時代でもないので、複製もままなりません。また飾って楽しむ美術作品ではなく、実際に使用する実用品ですから、まちに変化があればそれに対応しなくてはいけません。その変化に対応する方法が無数の貼り紙だったのです。

1689年に出来た「堺大絵図」ですが、その後起きた地形上の変化のビッグトピックといえば、やはり大和川の付け替えでしょう。奈良に発し、生駒山地と金剛山地の合間の亀の瀬渓谷を切り裂いて大阪平野に流れる大和川は、柏原村で南から流れてくる石川と合流すると北上し、北河内の平野を枝分かれして潤したあと、淀川へと合流していました。この大和川が度々氾濫するということで、被害にあう村々の住民は、大和川を付け替えて堺・住吉方面へ西行させることを嘆願していました。変更される川筋上の住民たちは土地を奪われることになるので、反対運動も盛んでしたが、幕府が決断を下したことにより元禄17(1704)年に付け替え工事がスタートします。長さ14キロの大工事にもかかわらず、わずか8か月足らずの後期で大工事は完了します。
「堺大絵図」には、この新大和川の川筋も、貼り紙によって付け加えられています。

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▲河口付近の大和川。


貼り紙は大和川だけではありません。
良く知られている通り、付け替えられた大和川によって、大量の土砂が堺の海に流れ込むようになり、堺の港は浅くなって使えなくなってしまいます。ただ藤田さんも指摘するように、この付け替え以前の1664年に突如海面に砂が盛り上がって一夜にして戎島が出来ったという伝承があるように、その前から土砂が堺の海を浅くするような時計回りの海流の動きがありました。大和川の付け替えは、土砂が堆積する速度をさらに加速させたのではないかと藤田さんは言います。
「(突如現れたという)伝承の真偽はさておいて、土砂は戎島の周辺に堆積し、海岸線は変化した。堺大絵図も堺西部の港湾地域、戎島周辺の貼り紙が一番多いのです」


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▲堺大絵図は貼り紙で変貌していった。堺港の付近。


堺はこの土砂に悩まされ、何度も港を付け替えることになります。これだけ苦労することになるのに、どうして堺の商人たちは、大和川の付け替えに反対しなかったのだろう? 講演の参加者からもそんな疑問が投げかけられましたが、藤田さんはこう答えました。
「それは後世の人間だから言えることであって、当時の堺の商人たちが将来を予見できなかったことは別に不思議ではない。一方で、(付け替えを決断した)幕府の役人たちは分かっていたのではないかと思います」
まさにこの講演を行っている中之島界隈は、水運を利用して蔵屋敷が立ち並んでおり、「天下の台所」と称された大坂の経済活動を支えていました。付け替え以前の大和川の土砂は淀川に流れ込んでいたわけで、放置すれば淀川の支流堂島川・土佐堀川にも影響を及ぼし、保全するのは厄介な事だったでしょう。大和川が淀川から切り離すのには、大坂の蔵屋敷、そして大坂の経済を守る意味があったのかもしれません。

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▲夜の堂島川。大和川と淀川が切り離されなければこの風景はなかったかもしれない。


「堺大絵図」を読み解くことで、大坂の蔵屋敷を守る引き換えに、堺の港を犠牲にしたバーターが浮かび上がってくる。今回の懐徳堂春季講座シリーズの総タイトル「古地図から読み解く日本史」に、「水都大坂はいかにしてつくられたか」という副題がついていたことに、なるほどと納得したのでした。
※このあたりのことは、翌日の第3回講演「17世紀の大阪湾岸や淀川筋を描く絵図」(講師:鳴海邦匡さん)でより詳しく語られたそうなのですが、残念ながら不参加でした。


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▲現在の旧堺港。


■現在と未来へ
藤田さんの講演は江戸時代で終わらずに、現代とそして未来にも言及されていました。ここでも古い地図と現状や資料を重ね合わせた時の興味深い話題が提供されました。

風間六右衛門が町割りした近世都市堺は、昭和20(1945)年の堺大空襲で一部を残して焼け野原になってしまいます。大坂夏の陣以来の壊滅的な打撃からの復活は不死鳥(フェニックス)になぞらえられました。
復活のシンボルロードとなったフェニックス通りですが、現在のように中央環状線とつながった姿になったのは戦後のことです。しかし、戦前の航空写真と重ね合わせると不思議な光景が見えてきます。
戦前も市電を通したり防災上の理由もあって、道の拡幅工事が盛んになされていました。後のフェニックス通りも阪堺電気軌道大浜支線を通すため、大道筋より西側は拡幅工事をされていましたが、東側は宿院頓宮の境内があるので細い道のままでした。ただ、この時、今の「さかい利晶の杜」の位置にあった建物が曳家で動かされており、その建物の北面を東へ延長すると、丁度宿院頓宮の社の脇を通ります。これは丁度、現在のフェニックス通りの位置に重なります。藤田さんは、すでに戦前から、現在のように宿院頓宮の境内を削って大浜から東へ一直線に道路を繋げる意図があったのではないかと読み解きます。


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▲宿院頓宮の敷地を削って、道路を拡幅してフェニックス通りが生まれた。


最後に、今後注目されるのは、震災復興事業への歴史地理学の活用です。
ユーラシア大陸の東端で大陸プレートに挟まれた日本は災害頻発地帯で、その記録は書物や古地図、またそれ以外でも残されています。過去の災害の記録を知ることが、未来の災害の予防と対策になるはずです。災害復興・防災のために、地籍図や古地図を活用したデータベースの構築が進められているのだそうです。


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▲江戸時代の津波被害を今に伝える大浜公園の石碑「擁護璽」。


また、藤田さんが以前関わった高大連携による震災復興プロジェクトも紹介されました。2011年の東日本大震災の際に、ボランティアに行きたくても行けなかった高校生たちが、せめてボランティアに行った人たちの話を聞きたいと希望したのだそうです。
「高校生の熱心な姿には涙が出ました」
と藤田さん。
学生たちは地域に残る災害の記録を地域学習として学んだそうですが、堺にも地域研究に最適な教材があります。その一つが、大浜公園の石碑「擁護璽」です。これは1854年の安政地震の津波被害を後世に伝えるために建てられた碑文の中には、150年前の1707年宝永津波についての言及があります。
こうした過去の災害が実際にどんな範囲でどの程度のものだったのか。知的好奇心を満足させる楽しさ以外にも、生活と関連した部分でも歴史地理学は興味深い学問だと言えそうです。


大阪大学中之島センター
大阪市北区中之島4-3-53
TEL 06-6444-2100
FAX 06-6444-2338



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