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雑記帖 No.269

新堺史発見(3) 古地図から読み解く堺(前篇)

「元禄2(1689年)「堺大絵図」を読む」から

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※1989年堺市政100周年を記念して朝日新聞販売店連合会が復刻した『堺大絵図』


通天閣やグランフロントに大阪城、御堂筋に鶴橋、天王寺。大阪を象徴する建物や場所は様々あって、それぞれに個性的・魅力的ですが、中之島界隈もその一つでしょう。とかく猥雑なイメージばかり強調されそうな大阪にあって、堂島川と土佐堀川に挟まれた中之島公園と中之島公会堂はじめ名建築の数々は「水都大阪」の面目躍如。水運で発展した美しい大阪の一面を見せてくれます。


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▲中之島と土佐堀川。

今回は、そんな中之島にある大阪大学中之島センターへ足を運びました。この大阪大学中之島センターで開講される懐徳堂春季講座「古地図から読み解く日本史-水都大坂はいかにしてつくられたか-」の第2回「元禄2(1689年)「堺大絵図」を読む」を受講するためです。
懐徳堂とは「大阪大学21世紀懐徳堂」のことで、「江戸時代の享保9年(1724年)に大坂商人たちによって創設された私塾「懐徳堂」の精神を戴いて」できたものだそうです(大阪大学webサイトより)。この私塾は身分に関係なく市民が学んだことにちなんで、21世紀の懐徳堂も大阪大学の文化資源を社会に還元する活動を行っているのです。

「元禄2(1689年)「堺大絵図」を読む」も満員御礼の人気。この時は、大阪市内とは離れた堺の絵図という縁の薄いテーマにも関わらずと思っていたのですが、それはちょっと浅はかな考えでした。実はこの場所で開かれる事に十分に意味のある講演だったことに、後ほど気づくことになります。

そんなわけで、最新の研究で明らかになってきた、従来とは異なった堺像を探訪する「新堺史発見」シリーズ。今回はこの懐徳堂の講演をレポートします。


■江戸の地図と変わらない精密な地図
今回の講演の講師は神戸大学教授の藤田裕嗣さん。神戸大学附属中等教育学校の校長先生もなさっていて、校長に就かれる前は、高校生が地域文化を研究するのを大学生がサポートする高大連携事業にも関わられていました。専攻されているのは歴史地理学というちょっと耳慣れない学問です。地理なのか、歴史なのか、どっちなのでしょうか?
「(古地図などの)地図上で見て、その現場が今どうなっているのかを見にいきます。丁度ブラタモリとやっていることは一緒です」
「ブラタモリ」とはタレントのタモリが、まち歩きをしながら、その地域の地形や地質などと歴史の関係を読み解いていく人気番組です。こういう地理的な条件があったから、こんな人々の営みがあって歴史が積み重なり、今こんな風になっているのだというアカデミックな解説がこの番組の面白い所でしょう。


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▲講師の藤田裕嗣さん。専攻は歴史地理学。


藤田さん案内によるブラタモリ@堺ですが、使用するのは1689年に作られた「堺大絵図」です。南北3km、東西1kmを約1/300の縮尺で描き、短辺でも4m以上の巨大さで10枚組になります。
描かれているのは、今でいう旧市街区。南海本線「堺」駅と、南海高野線「堺東」駅に挟まれた環濠を中心とするエリアになります。地図には、南北には紀州街道(大道筋)が走り、摂津国と和泉国の国境としても知られている大小路が直交して描かれています。
藤田さんは、この地図に対して厳密な実証を試みた研究結果で、おおよそ実際の1間(6尺5寸/約181cm)を地図上では2分(約0.6cm)で表されていることを指摘します。
「非常に精密な地図で、江戸で作られた地図と同レベル」
との高い評価です。これはもちろん、この大絵図が精密な地図であるというだけでなく、それを生み出した当時の堺が高い技術水準を持つ都市であったことを示しています。


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▲堺大絵図は約1/300の縮尺で緻密に描かれた。


地図と現在の状況を見比べると、当時の堺の暮らしが浮かび上がってきます。たとえば、山口家住宅です。
「大絵図を見ると、たとえば山口家住宅は越前屋の名で示されています」
大絵図の山口家住宅は、山之口筋から六間筋に広がる敷地になっています。これを堺市立町家歴史館山口家住宅となっている現在の状況と比較すると、東の敷地が無くなり、建物自体は北に増築されています。
「山口家の作りを見れば、これは商家ではなくて農家であることがわかります。商家と農家は全然違う」
農家といっても山口家は庄屋で、百姓から年貢を徴収する立場だったされています。たしかに大きな土間がある造りはいかにも年貢の荷卸し作業に向いていそうです。


■中世堺と近世堺の断絶
一方、ここで注意しなければならないのは、藤田さんが研究対象としている中世という時代の堺と、この絵図に描かれた江戸時代の堺は同じものではないということです。
藤田さんによると、堺では考古学的な発掘件数はすでに1000件を超えており、考古学的な調査による裏付けも進んでいます。覚えている方もいると思いますが、一昨年(2016年)も熊野小学校の校舎改築工事に伴って行われた発掘調査で中世堺の環濠の一部が見つかり現地説明会が開催され話題になりました。こうした研究から、大絵図にあり現在も名残をとどめる江戸時代の環濠よりも、中世の環濠は内側に一回り小さい範囲を囲っていたのではないかとの推測がなされ、堺市のwebサイトなどでも紹介されています。

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▲発掘調査が行われた熊野小学校も新校舎が完成。


ただ、この仮説に中世を専門とする藤田さんは異を唱えています。
「1000か所といっても、点在する狭い箇所を調べただけです。点と点をつなげて無理矢理線を引いただけ。そもそも数キロの環濠を水平に張り巡らせるのは技術的にも大変なこと」
さらに言えば、整然とした都市設計は古代や近世以降のものであり、中世都市というのは道も入り組んだ混沌とした状態が特徴なのです。
「小さな区画ごとに環濠があり、それがつながった状態だったのではないか?」
と、藤田さんは推測されます。
曲がりくねった道と環濠が複雑に絡み合う有機的で迷路のようなまちに、内外からの来訪者でごった返す港湾商業都市。猥雑で活気に満ちたそんな姿が想像できます。


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▲再整備されて美しく蘇った現在環濠の様子。


中世堺と近世堺は全く別物だったと考える藤田さんからすれば、かつて堺市博物館で開催された「特別展 堺復興-元禄の堺大絵図を読み解く-」のタイトルにも異議がありました。
藤田さんによれば「堺は単に復興したのではない。新しい都市計画によって生まれ変わった」のが江戸時代の近世都市堺なのです。

1615年の大坂夏の陣で焼失した堺は、早くもこの年の6月18日には復興に取り掛かります。この時、堺奉行長谷川藤広に命ぜられ町割りを行ったのが地割奉行風間六右衛門でした。道の曲がりくねった中世堺を、碁盤の目のように整然と道が直交する町割りの近世堺に作り替えたのは、この風間なのです。

以下余談。実直な人柄だったという風間六右衛門ですが、熱心な法華宗(日蓮宗)の信者でもあり、新しい町割りの際に法華宗の寺を優遇したとして、一部の人々から反感を買うことになります。風間六右衛門は、その申し開きのために、江戸へ向かうのですが、堺を出たすぐその場で自刃し命を絶ったのだそうです。風間六右衛門の自刃の地には、お堂が建てられ風間堂と称され、今では風間寺というお寺になって残っています。


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▲かつての北辺の環濠を越えたすぐのところに風間寺はあります。故事通りに、風間六右衛門は、堺を出てすぐに自刃したのでしょう。


こうしてみると、まるで違うものでありながら、私たちが中世の「自由都市堺」を語る時に、どうしても整然とした町割りの近世堺をイメージしてしまいがちです。それは、ひとつには中世戦国期の堺の資料が少ないこと。もうひとつは中世堺を舞台にして大ヒットしたNHK大河ドラマ「黄金の日々」の影響が大きいと藤田さんは言います。
堺の商人納屋助左衛門(ルソン助左衛門)を主人公にした「黄金の日々」は戦国武将が幅を利かす大河ドラマの中でも異色の作品で、クオリティの高さからファンも多く、人気劇作家の三谷幸喜さんもその1人。近年大ヒットした三谷脚本の大河ドラマ「真田丸」にも、「黄金の日々」へのオマージュが盛り込まれていると指摘されるほど、「黄金の日々」は大きな影響を残した作品です。もちろん地元堺市民への影響は大変大きなものでした。


そうした誤ったイメージを白紙に戻し、中世とは断絶して再生した近世都市堺の地図として大絵図を見た時に一体どのようなことがわかってくるのでしょうか? 後篇で迫ります。


大阪大学中之島センター
大阪市北区中之島4-3-53
TEL 06-6444-2100
FAX 06-6444-2338

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