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雑記帖 No.242

新堺史発見(1) 江戸時代 井原西鶴が見た堺(前篇)

矢内一磨学芸員講演「意外と知らない江戸時代の堺―井原西鶴に学ぶ―」から

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(現在の紀州街道)

今、歴史の中の堺が見直されようとしています。
新資料の発見、研究の進展によって、これまで考えられていた堺のイメージが覆り、新たな堺像が立ち上がりつつあるようです。

「新堺史発見」と銘打ったシリーズでは、様々なジャンルから歴史上の堺に光をあてる研究者の方々のお話から、新しい堺像を探っていこうと思います。
第一回は、堺市博物館の学芸員矢内一磨さんに登場していただきましょう。江戸時代の堺についてどんな新発見があるのか、2018年4月21日に堺市博物館で行われた連続講座 堺の再発見「意外と知らない江戸時代の堺―井原西鶴に学ぶ―」をレポートします。


■歴史のクロスポイント

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▲堺市博物館学芸員の矢内一磨さん。


堺市博物館の地下一階にあるホールは100名の定員がほぼ満席。この講座への関心の高さがうかがえます。
満員の聴衆の前に登場した矢内一磨さんは、ちょっとした名物学芸員さんです。堺を舞台にした映画「嘘八百」に情報提供で協力し、映画本編には矢内さんをモデルにしたキャラクターも登場するとか。
研究者としては、古文書をもとに中世近世地域社会の研究をされています。近著では臨済宗大徳寺派の大本山大徳寺と堺にも馴染み深い一休宗純の関係についても取り上げました。矢内さんは言います。
「堺は古文書が豊かなところです。古文書の分かりやすい解説はなかなか難しいのですが、今日は難しいテーマを分かりやすく。でも真面目な水準を落とさずにやりたいと思います」
今回の講座では、タイトルにある通り誰もが知る江戸時代の大作家井原西鶴を取り上げます。
「井原西鶴は著作の中で堺の事を書いています。大文豪が観察した堺はどんなものかを見ていきます。これまで江戸時代の堺は、停滞した時代だと思われていました。大和川の付け替えで港が埋まって衰えたのだと。それは本当なのか? (講演を)聞いている皆さんが堺を再発見するような見方で行こうと思います」


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▲もともとは七道のあたりにあった堺の港は、付け替えられた大和川の運ぶ砂によって埋まり、何度も移転して現在の大浜近くに定まったとされています。


具体的な井原西鶴の話に入る前に、矢内さんは今回の講演の前提となる文化史の歴史観を説明しました。
「文化史の見方で、文化とは何か。自然と文化があって、自然が人間の手が加わっていないものであるのに対して、文化は人間の手が加わったもので、工業生産品も文化だと言えます」
"文化"と言う時、もっと狭い範囲で芸術作品など人間が創り出した物の中でも"高尚な"一部の物を指す場合もありますが、ここではもっと全般的なものを指すようです。技術や経済活動、社会習慣もひっくるめた日常の生活の事と言えるかもしれません。そんな意味での文化史から堺を見直すとどんな堺が見えてくるのでしょうか。
「古墳時代や戦国時代も、江戸時代やいくつかの時代を通過して現代へ来てます。つい、その時代時代で終結しているように感じてしまいますが、より古い時代のことを知るにはより新しい時代のことも知らなければいけません。戦国時代以前や、明治時代以降を考える時に現代とつなぐ結節点(クロスポイント)である江戸時代を抜きにしては、歴史的な見方が成り立ちません。現在から、時代を通り越して、古墳時代の卑弥呼や聖徳太子に自己投影してしまう人も時にいますが、それは歴史的な見方ではなく自己満足に過ぎない。ロマンと(歴史を)ごっちゃにしてはいけない。私たちは江戸時代の文化を通じて戦国時代を感じることができる。江戸時代がフィルターになっている。フィルターになっている江戸時代を観察することで戦国時代を知ることが出来るのです」
たとえば、矢内さんは仏教を例にとります。仏教はインドで生まれて、中国や朝鮮半島を通じて日本に伝わりました。伝わってきた間の地域を抜いて仏教の話をしてはおかしなことになります。

つまり古墳時代や戦国時代の堺を語るにあたって、江戸時代の堺を抜きにすることは出来ないということです。
「まずは意外と知らない江戸時代の堺を知ることから始めましょう。それには案内人が必要です。沢庵さんなんかも面白いのですが、今日は井原西鶴さんに案内人を務めてもらうことにします」
井原西鶴といえば教科書にも登場する日本文学史上のビッグネームです。さて、この井原西鶴とはどんな人物だったのか、おさらいをしてみましょう。


■多産の天才・世俗の天才 井原西鶴
井原西鶴は1642年頃、大坂・なんばに生まれ、15才で俳諧師を志して名を成します。俳諧師として有名なのは、万句俳諧です。これは一昼夜で何千もの俳句を作るというもので、当初は1000句・1600句程度だったものが、ライバルと競い合ううちにヒートアップし、1683年住吉社前では驚愕の2万3500句を達成します。一昼夜を24時間とすれば、一分間に16.3句も作らねばならない計算になります。人間業とは思えない偉業です。
俳諧師として人気を博した井原西鶴は、次に小説家としても成功を収めます。
「好色一代男」「好色一代女」といった好色もの、「日本永代蔵」「世間胸算用」といった町人ものは、現代では古典として教科書にも登場するような本です。矢内さんは、井原西鶴の才能を以下のように評価しています。
「人間の欲を書くことについては、日本の文学史上、これほどの文学者はないでしょう。経済、性、いろんなものを真正面から井原西鶴は書きました。井原西鶴は多産の天才、世俗の天才です」
この巨大な才能は、多くの作品を残し1693年に没します。

さて、井原西鶴が堺について何を語ったのかを知る前に、当時の堺についてもおさらいしてみましょう。
千利休やルソン助左衛門らが活躍した自治都市・中世堺は、大坂夏の陣において1615年4月28日に豊臣方の手により焼失壊滅します。しかし、同年6月18日には復興の起工式が行われ、中世都市堺から生まれ変わった近世都市堺が誕生します。
「中世の堺は道もクネクネしていたし、お寺と住居がごちゃごちゃしていました。近世の堺は、それよりも一回り大きくなり、町人の住むエリアがまちの真ん中に、その外周を囲んで寺院が配される。そして外周に農人町、それを囲む形で濠が巡らされます。中心には奉行所や紀州藩の屋敷もありましたが、極端に武士の家が少ないまちです。人口は最盛期で5万人から7万人でした」
なお、現代の堺市の旧市街区は太平洋戦争の戦火でほとんど焼失し再建されたものですが、北部の『七まち』界隈は焼け残り江戸の風情をとどめています。

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▲いわゆる『七まち』界隈には古い街並みが残る。北半町で昔ながらのお香づくりを続けている「薫主堂」。

では、いよいよ、井原西鶴の描いた堺を見てみましょう。
「『日本永代蔵』に、大小路の酢屋樋口屋の話が出てきます。ひとつは『伊勢海老の高買い』。ある年の暮れに、迎春の蓬莱に用いる伊勢海老と橙が品薄になって高価になりました。多くの人は無理をして伊勢海老と橙を手に入れたのですが、堺の樋口屋は伊勢海老の代わりに車海老、橙の代わりに九年母を購入した。この車海老と九年母の蓬莱は「才覚男の仕出し」と好評を得て、堺中の流行となり、その年の堺では伊勢海老と橙は売れなかったそうです」
当時の堺では、こうした工夫がけち臭いと馬鹿にされず、才覚があると評価されたのです。実用本位を尊ぶまちの空気が伺えます。

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▲大小路界隈。樋口屋があったのはこのあたりだろうか。

さらに樋口屋の話として、深夜に訪れた客を狸寝入りで追い返した店員に、翌日店の前の何もない道を深く掘らせて、「それだけ苦労しても一文も出てこない。一文を得ることを惜しむな」と諭した話が出てきます。
樋口屋は更に室町時代の出来事を話して聞かせます。連歌を好む貧しい生薬屋が、堺に滞在していた連歌師の宗衹を招いて連歌の会をしていた時に、胡椒を買いに来た客に中座して対応した。宗衹はそれを「優しき心ざし」とほめた。そんな故事を持ち出して、店員を教育したのだといいます。
井原西鶴は、堺の商人が雇用主の域を超えて、師範が弟子を育てるように接していることに注目したのです。
「堺の商人は非常に心細やかに教えている。室町時代の故事なども語り、歴史を学ばせている。我々に近い言葉が出てきます」
と、矢内さんは井原西鶴の描いた堺商人像を解説します。

樋口屋はすでに現代の堺には存在しません。しかし、井原西鶴の取り上げた堺商人の中には、その系譜が今に続いている商人もいます。それが小刀屋です。井原西鶴の描く小刀屋のエピソードは、堺商人の価値観を私たちに教えてくれるだけでなく、従来あった江戸時代の堺のイメージを覆してくれるものでもありました。

(→後篇へ)


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