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雑記帖 No.229

再発見・戦国の絵師 土佐光吉(2)

近世絵画の礎になった絵師

※作品の写真は、堺市博物館特別展「土佐光吉 戦国の世を生きたやまと絵師」図録より転載。
展示風景の写真は堺市博物館の許可を得て撮影。
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土佐派『澪標図屏風』/個人蔵


室町時代、やまと絵の画派土佐派は、京都で天皇や貴族、足利将軍家などから仕事を請け負っていました。土佐光茂(みつもち)の弟子である玄二は、師匠光茂の息子・光元が織田信長に従軍して若くして戦死したことから、光茂から光元の遺児の養育を頼まれるとともに光元の遺領を受け継ぎ、土佐派のリーダーとなりました。玄二は受け継いだ遺領の中に、現在の堺市南区にある上神谷があったことから、裕福な商業都市・堺に移り住み大寺(開口神社)近くの川端町に工房を構え、絵師として土佐光吉(みつよし)と名乗ったと考えられます。

堺市博物館では特別展『土佐光吉 戦国の世を生きたやまと絵師』が開催(2018年10月6日~11月4日)しています。堺でもほとんど名前の知られていない土佐光吉ですが、重要文化財を多数含む51点もの展示品がある充実の展覧会です。
担当の学芸員・宇野千代子さんによると、土佐光吉は日本絵画史上、重要な人物だとか。

前篇では、土佐光吉が堺に工房を構えた経緯と、土佐派の十八番である肖像画について話しを伺いました。後篇では、土佐派のもうひとつの十八番を紹介していただくことからはじめましょう。


■物語絵の世界

特別展の第3のエリアには、大きな屏風絵などが集められていました。
宇野「肖像画と並んで土佐派が得意としたのが物語絵です。『源氏物語』や『曽我物語』といった古典物語を題材にしています」
――今の小説の挿絵にも通じますね。物語の名場面が描かれていて、これは物語のファンなら欲しくなりますね。
宇野「こちらに面白い絵がありますよ」
――おや、部屋の様子だけで、人がいなくて、なにか物悲しい感じですね。。
宇野「これは「留守模様」といって、人物は登場させずに、風物の描写のみで物語の情景を暗示させる手法で描かれた『源氏物語』の『帚木(ははきぎ)』の帖の一場面です。土佐光吉の師匠である土佐光茂の作品と光起が鑑定していますが、実は光吉の作とする説もあります」
――奥深い芸術鑑賞ができる作品ですね。


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▲土佐光吉筆『曽我物語図屏風』(部分)/渡辺美術館蔵。仇討ちに挑むも、落馬して失敗するシーン。


宇野「逆に躍動感のある作品もあります。この『曽我物語図屏風』です。長らく作品を写した白黒写真だけ知られていて、作品自体は行方不明になっていたのですが、鳥取市の渡辺美術館に収蔵されているのが、近年発見されたのです」
――『曽我物語図屏風』とはどういう作品なのですか?
宇野「源頼朝の時代の曽我十郎・五郎兄弟による仇討ち物語を描いています。富士山麓での巻狩りで仇討ちを果たそうとするも失敗したシーン、その夜にたいまつを手に寝所に夜襲をかけて討ち取るシーン、しかし頼朝に捕まり処刑されるシーンなどが生き生きと描かれています」
--こちらにはほ同じ画題を描いたような屏風が2つ並べてありますね。
宇野「『源氏物語図屏風』ですね。左が光吉の直筆のもので、右は工房の絵師のものです。光吉の堺の工房には何人も絵師がいて、大きい屏風絵や細密な画帖など光吉の指揮のもと共同で制作していました」
――同じ登場人物を描いていても、どこか味わいが違いますね。光吉の描く人物は髪の毛の書き方ひとつも不思議な魅力があります。工房の絵師の描く人物は、よりでディフォルメされています。同じミッキーマウスでも、ディズニー本人が描いたものと、後のクリエイターが描いたものの違いみたいな。
宇野「愛されキャラが時代とともに変遷していったようなところはあるかもしれませんね(笑)」

――土佐派の工房は堺のどこにあったのでしょうか?
宇野「裏書に川端町住人土佐源左衛門と記されている絵を先ほど紹介しました。光吉の暮らした堺の町は大坂夏の陣で焼かれましたが、その後再建され元禄2年には地図が完成します。この地図に川端町が記されています。丁度大寺(開口神社)さんと、宿院頓宮の間です。そのあたりにかつてチリヤタラリ川という川があったので、川端町といったようです」
――今の大町あたりでしょうか。今でも『川尻』というバス停があるのもそれにちなんでいるのかな。しかしチリヤタラリとはどういう意味なんでしょうね?
宇野「それはわからないですね(笑)」


■土佐光吉が作った土壌
土佐光吉は、芸術性の高い作品からエンターテインメント性の高い作品まで、幅広い作風の作品を遺しているようです。一体どんな人物だったのでしょうか?

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▲『土佐家文書』より、狩野派の絵師たちが光吉に宛てた書状。狩野派と土佐派の交流が伺える。


――光吉の人物像がわかる逸話のようなものは何か残っていますか?
宇野「現在展示中の狩野山楽や狩野孝信が土佐光吉にあてた手紙からは、光吉がかなりの遅筆だったことが読み取れます。狩野派が請け負った宮中の絵画関係の仕事に光吉も参加し、杉障子の絵を任されたものの、絵が完成していないのは光吉だけという事態になったようです」
――光吉が仕事が遅いというのは、芸術家肌だったのでしょうか?
宇野「どちらかといえば職人肌でしょうか。光吉は細密な表現を得意としており、隅々まで同じ調子で丁寧に描いています。そんなところにも仕事が遅い理由があるのかもしれません」
――そんな職人気質が、職人のまち堺とマッチしたのかな。

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▲土佐光吉筆・源氏物語手鑑より『賢木』/和泉市久保惣記念美術館蔵。様々な形に加工した金箔を使い、細密な描写をしている。重要文化財。


宇野「光吉は緻密さが特徴ですが、もうひとつ貴族でない人々を生き生きと描くのも得意だったように思います。たとえば、『源氏物語』の『澪標(みをつくし)』の帖を描いた屏風を展示していますが、光源氏が住吉大社に行列を成して参拝する様子が描かれています。ここには光源氏の行列を座って見ている人々の姿が、平安時代の装束ではなく、安土桃山時代の衣装で描かれています」
――光吉の生きた時代の人々の姿が描きこまれていたんですね。
宇野「これは私の想像ですけれど、まるで源氏物語の舞台を見物しているようなこの人々は、光吉のまわりにいて絵の注文もしてくれる堺の人々の姿を写していたりしないかなと思うのです」
――ルネサンスの画家が、宗教画にパトロンや自分自身の姿を滑り込ませたのと同じような感じですかね。もっと言えば現代の漫画家や映画監督的というか......。展示された作品や資料をもとに、そういう想像の翼を広げていくのも、展覧会の楽しみの一つですよね。チヨマジックに続き、チヨファンタジー、いいですね。


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▲土佐派・『澪標図屏風』(部分)/個人。安土桃山時代の装束で描かれた人々。



■近世絵画の礎になった光吉
さて、土佐光吉が堺にいた理由というよりも、京都に戻らなかった理由として狩野派の存在があるのではないでしょうか? 狩野永徳が送ったラブコールには、絵師の家にとって大切な下絵など土佐派の技術を手にいれたいという裏があったのかもしれません。土佐光吉は、師匠の光茂から譲り受けた下絵を守るために、京都から遠い堺にとどまったとしたらどうでしょうか?

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▲『犬追物図屏風』/京都大学総合博物館蔵。光吉の犬追物図を学んだ絵師によって描かれたもので。


宇野「そうですね。ここに『犬追物』を画題にした屏風絵があります。馬術や弓術の鍛錬のための武士の競技『犬追物』の絵は、狩野山楽のものが最も有名です。じつは土佐派の方が狩野派よりも古くから『犬追物』の絵を描いていましたが、原本は現存せず、狩野派の絵師による模写の存在などにより、土佐派の『犬追物』の絵を狩野派が学んだことを知ることができます」
――狩野派が土佐派から『犬追物』を学んだ、悪く言うとぱくったってことでしょうか?
宇野「著作権という概念もなく、悪いという意識もなかったかもしれませんね。また、土佐光吉から狩野山楽に眼鏡を贈ったという記録が残っていて、それは拡大鏡なのかわかりませんが、絵を描く時に使ったのではないかと思います。仲が悪かったわけではなく、交流しながら、影響を与えていったのでしょう。また狩野派だけではなく、長谷川等伯の弟子たち(長谷川派)も光吉の絵を学んでいたことが、美術史研究家によって指摘されています。中世の土佐派を受け継いだ光吉の絵画が、近世の日本絵画に大きな影響を与えたのは確かです」

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▲土佐光吉筆『七十一番職人歌合』第1巻(部分)/京都市立芸術大学芸術資料館蔵。光吉は職人などの姿を生き生きと描いている。


――それだけの存在だった土佐光吉が堺で忘れ去られた理由はなんでしょうか。
宇野「光吉の死後ですが、堺は大坂夏の陣で全焼しました。おそらく堺の人々を描いた肖像画の多くはこの時焼けてしまったのではないでしょうか。光則は下絵を持って避難し、再び堺に戻ってきますが、息子の光起が18才の時に京都へ移ります。光吉・光則・光起は、堺区の妙法寺のお隣にあった宝樹寺を檀那寺とし、三人の位牌や光起が描いた釈迦三尊像もあったのですが、太平洋戦争の時の空襲で罹災しました。大坂夏の陣と空襲という二度の罹災によって、光吉ゆかりの史料のほとんどが堺から失われてしまったことで、光吉は堺の人々から忘れ去られてしまったのでしょう」
――多くの作品は失われてしまったけれど、その影響が別の絵師たちの作品の中に生き続けた人だったのですね。
宇野「光茂から受け継いだものを基盤としながら、堺の町衆から求められたものを反映して、光吉とその工房が新しい絵画表現を生みだしていったのだと思っています」
――光吉が堺に来ていなかったら、クライアントは京都の上流階級ばかりで、商人や庶民の感性が土佐派に入ることはなかったかもしれないですね。土佐光吉を通じて、狩野派や後の絵師たちにも光吉たちの絵画表現が受け継がれていったわけですから、光吉は「やまと絵」を広く普及した功労者のようにも思えますね。


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▲今回の特別展では、関西大学との協力で、源氏絵の鑑賞教育のための映像コンテンツやクイズアプリも出展。写真は開発に携わった関西大学総合情報学部・井上卓也さん。手にもつのは立体パズル。(詳細


戦国時代に活躍しながらも歴史に埋もれた絵師・土佐光吉についてお伝えしましたが、いかがだったでしょうか? 堺と土佐派が出会ったこと、土佐派の中でも土佐光吉がリーダーだったことで、上流階級のものだった「やまと絵」普及したのかもしれない。光吉の人生・人となりには、まだわからないことがたくさんありますが、黄金時代の堺の豪商たちを相手に、彼らの姿を描いている光吉を想像すると親近感がわいてくる気がします。
絵画ファンならずとも観てほしい展覧会ですが、堺の人にはなおさらですね。今後さらに、土佐光吉の研究が進むことにも期待です。


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▲堺市博物館の須藤健一館長(右)と学芸員の宇野千代子さん(左)。



堺市博物館
住所:堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁 大仙公園内
開館時間:午前9時30分から午後5時15分(入館は午後4時30分まで)
休館日:月曜日
電話: 072-245-6201

会期:2018年10月6日(土)~11月4日(日)
※休館日 月曜日(但し、10月8日は開館)
時間:9:30~17:15(入館は16:30まで)
会場:堺市博物館
観覧料:
一般500円(400円)、 高大生 250円(170円)、小中学生 50円(30円)
※( )内は20人以上の団体料金
※市内在住・在学の小中学生は無料
※市内在住の65歳以上の方、および障害のある方は無料(要証明書)
※和泉市久保惣記念美術館特別展「土佐派と住吉派 -やまと絵の荘重と軽妙-」[会期:10月13日(土曜)~12月2日(日曜)]のチケット(半券可)を受付でご提示いただくと、観覧料を団体料金に割引いたします。

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