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雑記帖 No.206

呂宋の海へ~アジアネットワークの中の堺~(1)

中世の海

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中世自由都市堺を支えたのは、中国や東南アジア、ヨーロッパとの貿易がもたらした巨万の富でした。中でも貿易商人ルソン(呂宋)助左衛門こと納屋助左衛門がルソン(フィリピン)よりもたらしたルソン壺は、千利休の目利きによってとてつもない値段がつけられたことで知られています。
そんなこともあって堺市民にとっては馴染みのあるルソン=フィリピンですが、一体どんな歴史を持つ国で、堺とはどのような関係を結んできたのでしょうか。
つーる・ど・堺では、過去から現代にいたるまで、堺と関係の深いフィリピンについて、現地取材も交えながら紹介することにします。それでは、400年の歴史と太平洋の波濤を超える旅に出てみましょう。
第1回は、まずはフィリピンがどんな国なのか、その歴史を簡単に振り返ってみます。


■大航海時代のフィリピン
長く植民地として異民族の支配を受けていたフィリピンですが、他のアジア地域ではよく見られる碑文のようなものが見つからなかったこともあってそれ以前の歴史がよくわかっていません。唯一の例外が世紀の大発見となった1990年に発掘された『ラグナ銅板碑文』で、これによるとどうやら10世紀ごろには、法律による統治が行われていた様子がうかがえます。中国の歴史書に断片的に登場する記述からも、中国やイスラムの影響を受けたマレー系の人々が生活する社会が営まれていたようです。
そんな事情もあって、フィリピンの歴史書の書き出しは、大航海時代の1521年にスペインのマゼラン艦隊のセブ島到着から始められるのです。侵略された歴史の幕開けです。

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▲『世界図屏風』(複製:さかい利晶の杜)に描かれたフィリピン(ルソン)。


ヨーロッパから見れば、世界一周を達成するマゼラン艦隊は偉業といえるのでしょうが、太平洋やアジア諸国にとっては軍事制圧と植民地化のはじまりでした。新大陸アメリカを越え、太平洋に繰り出したマゼラン艦隊は「発見」した島々に対し、キリスト教への改宗を迫り、軍事力を背景にスペイン領土へと組み込んでいきます。このマゼラン艦隊に一矢をむくいたのが、誰あろうフィリピンのラプラプ王でした。
セブ島の対岸にあるマクタン島の王だったラプラプは、事前にマゼラン艦隊の到来を察知し、周到に戦略を練ると、遠浅の海岸でマゼラン軍を迎え撃ちます。大砲を搭載した船を降りるしかなかったマゼラン軍は、それでもマスケット銃で武装していましたが、ラプラプ王は両側面と正面から3部隊で取り囲んで白兵戦を仕掛けます。術中にはまったマゼラン軍は1時間に及ぶ激戦の末敗退し、しかも毒矢を受けたマゼラン本人が討ち取られてしまいます。丁度、この頃は日本では戦国時代も始まっていますが、ラプラプ王も戦国武将に負けないなかなか見事な戦いぶりではないでしょうか。
マゼランを失った艦隊は、その後も人員や船を失い、スペインに帰り着いたのはただ一隻18人ばかりでした。

こうしてラプラプ王の活躍もあって一度はスペイン人を撃退したものの、植民地を拡大しようとするヨーロッパの野望はそんなもので押しとどめることはできませんでした。
1557年にはスペインのライバルであるポルトガルが中国のマカオに定着し、アジア貿易の拠点とします。スペイン艦隊も1565年には再びセブ島に押し寄せ、軍事的制圧とキリスト教化を再開します。1570年にはマニラ(当時はマニラッド)の攻略に取り掛かります。マニラはイスラム教の影響を受けた先住民によって要塞化され大砲も備えていたのですが、スペイン軍には敵すべくもありませんでした。防御軍を打ち破り略奪をしたあとスペイン軍は一端退き、翌1571年に再入港してこの地を支配します。ここから333年に渡るスペイン支配、そしてフィリピン抵抗の歴史がはじまったのでした。この支配の下、それ以前の文献も多くが失われてしまったようです。
丁度、日本では織田信長が室町幕府を倒し、天下統一が完成に向かっていた時期でした。では、堺はどんな歴史を歩んでいたのでしょうか。


■世界の中の堺
文献上に『堺津』が登場するのは鎌倉時代の1220年頃のことで、河内鋳物師の拠点港としてでした。その頃はまだ国内港だったのですが、応仁の乱がおきると国際貿易港だった兵庫津が使えなくなり、1469年に堺に初めての遣明船が入港します。ここから堺の国際貿易がスタートします。
しかし、遣明船は明によって10年に一度と回数が制限されていたため、実際は堺と琉球(沖縄)間での貿易が盛んにおこなわれていたようです。堺から琉球へ向かう船が増えていることが、この当時薩摩(鹿児島)に記録として残っています。堺の商人は琉球に集まった明や東南アジアの産物を堺へと運ぶ貿易をしていたのです。

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▲堺旧港にあるルソン助左衛門像。


中には海を渡った堺商人もいて、その1人が冒頭に取り上げた納屋助左衛門です。NHK大河ドラマにもなったほど有名なルソン助左衛門こと納屋助左衛門ですが、記録にはあまり残っていません。豊臣秀吉の事を記した『太閤記』には、1593年にルソンから帰国したルソン助左衛門が唐傘やルソン壺、麝香に香料などを秀吉に献上し、秀吉は千利休に相談してルソン壺に値段をつけたというエピソードが記されています。しかし、千利休はその2年前の1591年に秀吉の命を受けて切腹しているので、『太閤記』の記述がどこまで信用できるのかは疑わしいところです。

とはいえ、多くの日本人が海外へ進出していたのは確かなことで、当時のアジア各地の交易都市に足跡が残されています。代表的なところでは、アモイ(中国・福建省)、バンデン王国(インドネシア)、アユタヤ(タイ)、ホイアン(ベトナム)などには日本人街もあり、このアジア貿易圏の中に堺も組み込まれていたのです。そんな中でも、スペイン統治下のマニラの日本人街は最大規模のもので、16世紀から17世紀にかけては3000人もの日本人が居住していたとされています。今、この記事を読んでいるあなたの御先祖様も、堺からマニラへと海を渡っていたかもしれませんよ?


1571年からスペイン人の統治が始まったマニラは、スペインのアジア戦略の拠点となり、マニラとアカプルコ(メキシコ)間でガレオン船貿易がはじまり『海のシルクロード』と名付けられ、莫大な富を生み出していました。
しかし、これはフィリピンやメキシコの先住民を搾取し強制労働させる苛烈な植民地支配が下地にありました。カソリック教会も一体になったこの腐敗した構造に義憤にかられた修道士もいました。初代マニラ司教のドミンゴ・デ・サラサールがその人です。サラサールの同僚には、やはりアメリカ大陸におけるヨーロッパ人の横暴を訴えたことで有名なバルトロメ・デ・ラス・カサス司教がいます。

サラサールの働きかけで汚職を監視するために一度は設置された司法行政院もすぐに閉鎖され、病身を押して司法行政院の再開を訴えたサラサールは弁論を振るう最中に心臓発作で死亡します。まさに憤死だったのかもしれません。以後続く植民地支配によって、フィリピンは繁栄から取り残され、「奪われた楽園」となります。


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▲現在の堺旧港。江戸時代の大和川の付け替え以降、堺の港は何度も場所をかえています。中世堺は大坂夏の陣で壊滅していることもあり、ルソン助左衛門が実際にどこから船出したのかは謎です。


このアジア貿易圏の中で堺が果たしていた役割の1つは、銀の供給源・輸出港でした。
博多商人が石見銀山を開発したのに対して、堺商人は生野銀山に関わりました。1570年頃から、織田信長の直轄地となった生野銀山の管理を堺商人今井宗久などが任されています。この頃の日本の銀の輸出量は、中南米におけるスペイン領全体に匹敵するほどで、世界でも一二を争うほどでした。
日本を訪れた修道士フランシスコ・ザビエルは堺のことを「堺は日本のもっとも富める港で国内の金銀の大部分が集まっている所」と紹介しています。1595年にヨーロッパで作られた日本地図には、都(京都)、鹿児島とならんで堺の名前が記されるなど、国際的にも知られた都市となっていました。

スペインにとってアジアの要だったマニラ、マニラなどとの貿易によって繁栄を謳歌した堺ですが、17世紀に入って徳川家康が江戸幕府を開くと、日本は鎖国となります。これで両者の関係が絶たれてしまったのか、というと、どやらそうではなかったことが最近の研究ではわかってきました。
第2回では、そんな堺の新常識についてお届けします。


参考文献
・堺市『アジアの海がはぐくむ堺』
・鈴木静夫『物語フィリピンの歴史』中公新書
・早瀬晋三『未完のフィリピン革命と植民地化』山川出版社


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