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雑記帖 No.204

空爆を生き延びたマンガ少年(2)

堺平和のための戦争展2018 プレ企画より

竹村健一さん

堺区八千代通にあるカフェ「きらっと」では、自らの戦争体験をまんがにして語り継ぐ活動をしている竹村健一さんの作品展示と、お話会が開催されていました。お話会には、竹村さん以外にも戦争体験者が集まり、いくつもの記憶がクロスオーバーしながら、戦争と戦後の物語が語られました。
この日のお話を3回シリーズでお届けする中篇では、戦後に学校の先生になった竹村さんが、なぜまんがを描くようになったのかの謎に迫ります。


■「おっちゃんガムおくれ」
竹村健一さん
▲参加者に作品を解説する竹村健一さん。


1945年3月13日の大阪大空襲を生き延びた竹村健一さんは、どの学校にも防空壕があり、頻繁に空襲があるので次第にみな防空壕に慣れていったといいます。
しかし、大阪にいてはいつ死ぬかわからないので、子どもだけ親戚の三田市の山奥に疎開をします。
戦局は厳しいものとなり、アメリカ軍の攻撃は激しくなっていきます。4月1日には、沖縄での地上戦が始まり、6月23日には沖縄の日本帝国軍は全滅します。空爆は大都市だけでなく、地方都市の市街地にまで拡大し、7月10日には堺大空襲、竹村さんの疎開した三田市艦載機が襲ってきて人や動物、あひるなどが被害にあっています。
7月になり、(ポツダム会議に出ていた)当時のアメリカ大統領トルーマンは本国から『例の赤ん坊が生まれた』との連絡を受けます。例の赤ん坊とは、広島・長崎に落とされた原爆のことです。原爆実験に成功したアメリカは、8月6日に広島、8月9日には長崎に原爆を投下します。鈴木貫太郎内閣と昭和天皇は、もうこれ以上戦争を続けることは不可能だとして、8月15日に戦争が終わります。しかし、終戦を目前にした8月9日にはソ連が参戦し、満州国に攻め込んできます。満州からの引き揚げは大変だったと聞いています。

戦争が終わり、竹村さんも焼け跡の西成に帰ってきます。
「堺の浜寺公園に進駐軍のキャンプが出来て、大阪にもジープでやってきました。進駐軍のジープは恐ろしかった。わざと大きな音を立ててやってくるのです。ジープの上からアメリカ兵がチョコレートやガムをばらまくので、拾って食べてみたら、本当に美味しかった。最初は子どもたちも怖がったし、大人は怒ったけれど、そのうち子どもらはギブミーチューインガム、ギブミーチョコレートって言うようになった。僕はそんな英語知らないから日本語で『おっちゃんガムおくれ』って」


■手塚治虫との出会い
きらっとでの展示
▲戦時下での暮らしを描いた作品の展示。


では、そんな竹村さんがなぜまんがを描くようになったのでしょうか。
それはこんな経緯でした。
成人し学校の先生になった竹村さんは、担任していた4年生の子どもの保護者が満州からの引揚者であったことを知ります。終戦間際にソ連軍に攻め込まれ、大変な苦労をした満州です。その体験談をしてくれた保護者は、竹村さんにも戦争体験を語り継いでほしいと頼みます。しかし、一体どうすればいいのだろうと悩んだときに思い出したのが「まんが」でした。
「そうだ。自分にはまんががある」
竹村さんは、実は漫画家を目指した過去があったのでした。

「もともと手塚治虫ファンで、ずっと手塚治虫の真似をしていました」
竹村さんのタッチは、やはり手塚治虫の影響を強く受けたものだったのです。それも趣味のレベルを超えて、漫画家になろうと出版社に持ち込みまでしたほどでした。そして、そこで偶然にも憧れの存在と出会ったのです。
「高校生の時に持ち込みをした大阪の出版社で、手塚治虫とばったり出会ったりしました」
その頃、手塚治虫は『ジャングル大帝』や『鉄腕アトム』の大ヒットですでに超売れっ子作家でした。熱心な手塚ファンだった竹村少年にとっては奇跡のような出会いだたことでしょう。

タペストリー
▲堺市役所の高層階ロビーには手塚治虫の火の鳥のタペストリーがある。何度も焼かれては再生した堺のシンボルといえます。


竹村さんは、東京の出版社にも作品を持ち込みました。
「まんが友達と一緒に東京へも行きました。集英社や講談社にも行って、その内の一社に約束も取り付けたのですが、親に強く反対されました。一生食べていけるだけ稼げるのかと言われたら、そんなことは確約できなかった」
結局、竹村さんは漫画家への道は断念して、もうひとつの夢だった教師への道を進むことにしたのですが、何か運命のいたずらがあったら『ジャンプ』や『マガジン』で連載する作家になっていたかもしれませんね。しかし、教師の道を選んだことで、竹村さんは数十年後戦争体験をまんがにすることになるのです。


■まんがで戦争体験を伝える
松原市の小学校に勤めることになった竹村さんは、前述したように満州から引き揚げてきた保護者との出会いから、戦争体験をまんがで伝えることにします。
「今のこどもたちにどうして伝えたらいいのか。テレビ時代のこどもは声だけだと飽きてしまう。だから、学校新聞や学級新聞に、戦争体験のイラストを描いたり、パソコンが無いころはスライドを使っていました」
実は、竹村さんは現在ではパソコンを使ってまんがを描くようになっています。
「まんがを(再び)描き始めたのが30年ほど前で、パソコンを使いだしたのは20年ぐらい前ですね。パソコンに詳しい若い先生に個人指導をしてもらって、フォトショップやパワーポイントを使っています。着色も最初は筆でしていましたが、今はパソコンでやっています」
おかげで色違いバージョンのイラストを作るなんてこともやってのけています。ちなみに、使用しているのはwindowsのノートパソコンだそうです。

はらぺこのうた
▲戦争中の暮らしを解説した『はらぺこのうた』(新風書房)。


こうして戦中戦後の生活をこどもの視点で描いた竹村さんの作品が生み出されました。
それは後に、『はらべこのうた』というタイトルの一冊の本にまとめられました。初版は1984(昭和59)年で、それから幾度か改定し版を重ね、最新の第6版は2017(平成29)年のものとなっています。


また、竹村さんは、まんが以外にも松原市の小学校が「平和教育」に力を入れる動きを見せたことを喜んでいます。
「松原市の小学校は、全校修学旅行で広島へ行くことになりました。それまでは広島派と伊勢派にわかれて随分やりあいましたが、今では15校全てが広島へ行っています。これは大きな成果だと思います」
現在は、先生の仕事も退職した竹村さんですが、80才を越えても創作意欲は盛んで、まだまだ書きたいテーマも沢山あるといいます。
後篇では、そんな竹村さんにきっと刺激を与えたであろう、他の参加者たちの戦争体験についても紹介することにしましょう。

きらっと
▲かふぇ「きらっと」。




きらっと
大阪府堺市堺区八千代通3−26
072-227-7150

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