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雑記帖 No.200

失われた風車の風景を求めて(1)

風車の行方

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埋め立てで失われるまでは、茅渟の海と呼ばれた豊饒の海と、白砂青松を謳われた風光明媚な海岸が堺にはありました。そして、もう一つ失われた風景として、海風を受けて回る何百基も連なった風車の景観が堺にはありました。
実際にその風景を子供の頃に見ていた、ある人がこんな一言をもらしたのです。
「最近、どこだったか車で走っていたら、回っている風車を見たよ」
それが今回の物語の始まりです。


■風車はどこにある?
海岸線に並んでいた風車は、戦後しばらくたつまで堺の景観として親しまれていたといいます。今ではすっかり姿を消してしまったのですが、臨海エリアの車内から見たという風車はどこにあるのでしょうか。
手掛かりにしたのはステンドグラスの駅舎の取材でもお世話になった、冊子「大阪府の近代化遺産」です。「堺の揚水風車」は4ページも紙幅がさかれており、ちょっと異様なほどに力が入っています。この記事によると、現在堺の風車は移設や新設なども含めて12基の風車が現存しています。いずれも公園か小学校の設置です。なぜか豊中市の服部緑地にも移設されていますが、それ以外はすべて堺市のものです。臨海エリアとなると、市小学校・浜寺石津小学校・浜寺石津西公園あたりでしょうか。

まず、堺区の堺駅近くにある市小学校は堺旧港を臨む位置にあります。外から校庭を覗いてみると、風車がありました。校舎裏の木陰から風車らしきものが覗いています。青と赤に塗り分けられたブレードも鮮やかで、遠目にはしっかりした風車に見えます。尾翼のある姿も、飛行機のようです。しかし、道路から距離もあって、走る車の車内から見かけることは難しく、目的の風車ではなさそうです。


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▲堺駅前の市小学校にある風車。


その足で南海電車に乗って二駅南へ向かい、石津川駅で下車しました。すると、ロータリーに銀色の風車、いや風車を模したオブジェが設置されていました。プレートの説明文によると、大きさの違う三つの風車で「遠景」「中景」「近景」の風車を表し、200基はあったという石津の景観を表現しているそうです。


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▲石津川駅前のモニュメント。

さて、この石津川駅付近に風車は2基あります。まず、海に近い1基を目指して、幹線道路を越えて、阪神高速湾岸線の高架近くにある浜寺石津西公園に向かいました。道の込み入った住宅地と土手の上にある道路の間の公園に近づくと、道路からもしっかりと見える風車が建っていました。青と黄色のブレードは、風が吹くと、力強く回りだします。
胴体部分がコンクリートの台座のようになっているので、置物のような印象もありますが、回転機構を備えたしっかりした風車です。この風車の説明書きは、風車の由来を語り、「『堺っ子が考案したこの風車から、子どもたちが、科学する精神を学んでもらったら......』と知恵と技術を後世に伝えるためにつくったものです」と設置理由を記しています。1973年の8月のものだそうです。

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▲浜寺石津西公園の風車は、ブレードが固定されておらず回転する姿を楽しめる。


幹線道路からも見えやすいので、おそらくこの風車が「車内から見えた」風車でしょう。
静かな住宅街のはずれにある人気のない公園で、風車は風に合わせてただひたすら回り続けています。

もう1基も確かめにいきました。道を戻って石津川駅を越えて、浜寺石津小学校にたどり着きました。ぐるりとフェンスを一周して捜索すると、校庭の片隅に水色の風車は佇んでいました。こちらはどうやらブレードは固定されているようで、風が吹いても風車は回りません。今回見た3基の中では、一番無骨な印象で、もともと実用で使われていた風車に一番近いもののようにも見えました。

かつてはこの風車が、何百基と存在しました。それはどんな理由で、どんな経緯があったのでしょうか。



■石津の風車が南大阪に普及


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▲浜寺石津小学校の風車。


風車を生んだ石津地区は、明治時代になって綿業が盛んでした。しかし、大正時代に入ると、安い輸入綿に押されて、野菜の砂耕栽培へと切り替えられていきました。新しく栽培をはじめたミツバ・ホウレンソウ・キクナなどは、大量の水を必要とするため、水汲みは重労働になって農民たちを苦しめていました。
大正後期になって地元の和田忠雄さんと高野長次郎さんの2人はオランダの風車を参考にして浜風を利用した揚水水車を考案します。これを農鍛冶の中尾正治さんが製作し、さらに当初は固定式だったものを、後に自動的に風向調整が出来るように工夫を加えたものが「石津の風車」となりました。

この風車は、ブレードの回転運動が上下運動へ変換され、ポンプによって水をくみ上げる仕組みでした。水汲みの重労働から農民たちを解放した風車灌漑は、石津地区だけでなく、大和川下流沿岸から河口付近の村にまで広がっていきます。昭和10年から25年頃までの最盛期には、大阪南部の泉南地区にまで広がって400基の風車が稼働していました。

石津の風車は誕生から100年近くたった現在、本来の役目を終えて人気のない公園や小学校の片隅に佇んでいます。すっかり消え去りはせずに、モニュメントとして残った風車たち。この風車には、機能だけではない価値があったのではないか。浮かんできたそんな疑問を解消するためには、どうすればいいのか? 
手がかりを求めて、「大阪府の近代化遺産」で「堺の揚水風車」の4ページを担当した社会景観工学の岡田昌彰教授にお会いすることにしました。私たちが耳慣れない社会景観工学という学問も、風車の謎を解き明かすカギになりそうです。

(中篇へつづく)

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