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雑記帖 No.140

木津川千年物語(6)お茶戦争

上狛お茶作道と木津高校

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堺出身の僧「行基のまち」として探訪を続けた木津川市は、千利休が絶賛した宇治茶の産地でもありました。前回の記事では、日本で唯一茶業科があった京都府立木津高校で、茶の湯のもととなった「茶香服(ちゃかぶき)」についても知りました。今回は、木津川を下って運ばれたお茶が世界史にも大きな影響を与えたというお話です。


■紅茶戦争
時は大航海時代。
ヨーロッパ人たちは、世界の海へ繰り出し、いわゆる「新世界(南北アメリカ)」や「中国文化圏」「インド文化圏」とも直接接触するようになります。そんな中で、ヨーロッパ人たちはこれまで出会ったことのない様々な嗜好品と出会い魅了されます。
南米のカカオ(ココア)、アラビアのコーヒー、そしてアジアのお茶です。

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▲大航海時代のヨーロッパ人を魅了したのは、中国をはじめとするアジアの豊かな食文化だった。


堺市博物館の館長を務められた故角山栄さんの著書「茶の世界史」によると、ヨーロッパ市場においてこの三つの飲料のいずれが人気を博すか、飲料戦争が繰り広げられたそうです。
現在、私たちはイギリスというと紅茶文化のイメージがありますが、それはこの時代にイギリス人がお茶(=紅茶)を選択したからです。選択には様々な要因があったのですが、その一つは日本も含めた東アジア食文化への憧れがあったのです。

当時のヨーロッパは料理文化は未発達で、豪華な料理とは量を沢山出すことでしかなかったのに対し、中国料理は素材や調理法だけでなく、食器やマナーなどの周辺文化も含めてきわめて洗練されたものでした。日本において独自に進化した「茶の湯」も、来日した宣教師たちの目には高い精神性・芸術性をもったものと受け取られ、東洋文化に対するコンプレックスを含めた憧憬が紅茶文化の後押しをしたのではないか......。

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▲木津川市の瓶原地区にある茶畑を見学した香港の俳優アレックスさん。中国生まれの喫茶文化が地球を一周してアレックスさんを日本に導いたようです。


イギリスにすっかり定着した紅茶は、歴史に名高い戦争も引き起こします。
17~18世紀の間、イギリスと中国の貿易は嗜好品の交換でした。中国は広大な領土と産物がある「輸入品の必要はない」国で、他国への輸出は中国からの恩寵として与えるものであり、貿易には消極的でした。一方、インドや新世界を植民地化していったイギリスは帝国主義国家へと成長し、お茶もイギリス国民にとって嗜好品から生活必需品へと変化していきます。
こうした状況では、イギリスが中国からお茶を求めるには、見返りとして銀しかなく、イギリスから中国へと大量の銀が流出することになります。これに困ったイギリスは、インドで栽培したアヘンを中国に売りつけることによって、銀を取り戻そうとします。自国にアヘンを蔓延させられて怒らないはずはありません。イギリスに抗議してアヘン密売をやめさせようとした中国に対してイギリスは砲艦でもって応じ、アヘン戦争が勃発します。
中国はこの戦争に敗北し、イギリスに香港を割譲させられることになります。1842年のことでした。
そして、外への窓口を限定していた江戸幕府の日本も、お茶戦争の荒波が押し寄せてくることになります。


■木津川のほとりに生まれた今神戸
世界的にお茶需要が高まる中、幕末に横浜と神戸が開港すると、上狛地区でも大きな変化が起きます。
環濠集落からそのまま街道を南下した木津川の川岸近くにお茶問屋街が形成されたのです。行基に由来する泉大橋のたもとで、川岸には津(港)がありました。津があったことから、もともと農家は少なく綿花問屋などが多かったといいます。綿花問屋から、お茶問屋に転業したお店もあったとか。「伊右衛門」が有名になった福寿園も、綿花問屋から茶問屋に転業したお店のひとつだそうです。
こうした記録は、当時般若心経600巻を上狛村で共同購入した際の記録が残っており、それぞれどんな家業についていたかがわかったのだそうです。

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▲福寿園の本家である緑樹園の雨どいには、茶商福井伊右衛門の「イ」の字が刻まれている。


上狛茶問屋街に集められたお茶は、川港から木津川を通って神戸に運ばれ、世界の市場へと打って出ました。上狛お茶問屋は大いに繁栄し、「今神戸」「東神戸」と称されるまでになりました。
世界市場を相手にするのは一筋縄ではいかなかったようですが、明治16年には全国茶業組合が組織されました。大正時代の記録では上狛だけで112軒のお茶問屋があったそうです。この時の相楽茶業組合は現在は山城茶業組合となり120年の歴史を数えています。

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▲上狛にある茶業組合の記念石碑。


こうしたお茶業者の後押しもあって、明治34年に農学校として開校し大正11年に日本で唯一の茶業科が作られたという歴史を持つのが、現在の京都府立木津高校です。今に残るお茶園と製茶工場が日本遺産に指定されたという木津高校に、今の時代にお茶と関わる若者たちの姿を訪ねました。


■木津高校の呈茶
木津高校(当時相楽群立農学校)は、大正天皇の結婚を記念して開校されました。
「だから天皇家の菊と、お嫁さんの藤原家の藤が、うちの校章なんですよ」
校長の北村元秀さんから、木津高校の歴史についてお話を伺うことができました。高校には、まだ手書きの資料なども保管されています。歴史を紐解くと、日本ではじめて登録されたブランド紅茶「べにほまれ」が、現在もつくられているそうです。
「茶業科があったのは、大正11年~18年と、昭和28年~42年の2回です」
今では、システム園芸科、情報企画科、普通科の3科がありますが、システム園芸科でお茶を作り、情報企画科でお茶の販売を行っているようです。それぞれ農業科・商業科が前身となっているようです。

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▲松野さんには「自分の店を出したい」という将来の夢があり、呈茶はいい経験になっているとか。こうした呈茶は、必須カリキュラムではないけれど、茶業コースの生徒は全員できるとのこと。


販売イベントでは、生徒さんによる呈茶(客人をもてなす茶)も行われるそうです。
この日、木津高校を訪れた一行も、3人ずつに分れ生徒の松野愛さん、松浦彩菜さん、二神音(ねね)さんの3人に呈茶をしていただきました。

お茶は木津高校で作っている「学校かぶせ茶」です。かぶせ茶とは、お茶を育てる時に、一時期覆いをかけることによって旨みを凝縮させる煎茶のことです。ちなみに、ずっと覆いをかけっぱなしにすると玉露になります。
私たちの担当の松野さんは、慣れた手つきでお湯を蓋のない器に注ぎます。
「これでお湯を冷まします。90度から80度になります」
冷ましたお湯を急須にそそぐのですが、煎茶の一煎目は、ぬるくしたお湯でゆっくりと時間をかけます。そして急須から、3つ並べた湯呑に一度に注がずにちょっとずつ注いでいきます。
「1煎目は甘い旨みがたっぷりと出ています」
匂いを嗅いでから、味わうと濃い味がします。
「まるで玉露みたいですね」というと、
「玉露はこんなものじゃないですよ」
と笑われてしまいました。

「2煎目は、葉がすでに開いています。香りも味も違いますよ」
同じように注いでいただくと、別物のようにさっぱり感があります。
「1煎目は濃すぎて苦手という方もいます」
2煎目、さらにさっぱりとした3煎目といただき、私たちは煎茶の美味しさと松野さんの技の見事さにすっかり釘づけになりました。
「もう一度、1煎目を入れましょうか?」
と尋ねられ。もちろん、とお願いしてしまいました。

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▲旨みのつまった最後の一滴までを注ぎます。


呈茶をはじめて体験した一行の中に、香港の俳優アレックスさんがいました。アレックスさんは、日本・上狛に来るのは2回目で、呈茶を体験するのははじめてです。一体どんな印象を受けたのでしょうか。
「普通、大人数にお茶を出すときは、大きなポットで一度に注いで出します。しかし、これは小さなポットで少しずつ飲んでいく文化です。その間に、ゆっくりと心に落ちていく。その間にお互いのコミュニケーションを取ることもできる」

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▲お茶を飲むアレックスさん。

アレックスさんが、なぜこの日、木津高校で呈茶を受けたのか。それは、あるアートプロジェクトのためです。そのプロジェクトの出発点は、実は堺にはじまります。

次回は、アートプロジェクトでつながった行基のまちの現在を見てみます。





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