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雑記帖 No.133

二柱の神が渡る宿院頓宮の謎 (2)

新しいものを取り入れ続ける堺らしい祭り

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住吉大社と堺の起源は、伝説と神話の入り混じる神功皇后の帰還に遡ります。
住吉の神のお告げで戦の航海に出かけた神功皇后は、朝鮮から堺の浜にたどり着き一夜休んだ場所が宿院頓宮となり、住吉の地に神の大社が建てられました。以後、毎年住吉大社から宿院頓宮へと住吉の神が帰る里帰り「御渡り」が毎年繰り返されることになったのです。前篇ではこの住吉と堺の一体ともいえる深いつながりをお伝えしました。
ところが、現在の宿院頓宮は「住吉大鳥両大社頓宮」となっています。
大鳥大社とは、西区にある和泉一宮の大鳥大社のこと。摂津一宮の住吉大社とは同格ですが、まるで縁起も性格も違う神社です。後篇では、なぜ宿院頓宮はこの両大社のお旅所となったのかに迫ります。


■大鳥大社の御渡り
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▲堺市西区にある大鳥大社。宿院頓宮からだと、大鳥大社と住吉大社はどちらも5キロ強の距離です。


住吉大社に残された記録によると、明治の初年の住吉神宮寺の廃止により、長く続いた住吉大社の御渡りが一端途絶えています。その間に大鳥大社の御渡りがはじまったようです。
大鳥神社の御渡りの様子は大鳥大社の宮司となった文人画家富岡鉄斎の手によって詳細に描かれています。(→「最後の文人が堺に遺したもの」)しかし、なぜ住吉大社の御渡りが中止になったのか。なぜ代わって大鳥大社が御渡りをするようになったのかを資料は語っていません。また、大鳥大社は、廃仏毀釈の影響もあって資料が一切残っていないため何もわかりませんでした。(→「白鳥の軌跡を追って」

では宿院頓宮では、何か伝わっていないないのか? というのが、今回の取材で知りたかったことの一つでした。宿院頓宮の権禰宜古布(こぶ)智寛さんは次のように答えました。
「宿院頓宮は堺大空襲の戦災で全焼しており資料は何も残っていません。しかし、お年寄りからの言い伝えでこんな話が残っているのです。当時大阪ではやり病があって、住吉さんのお神輿が七道まで来て引き返したというのです。御渡りが来なくなったことで、堺の人は寂しく思い、大鳥大社にお願いして御渡りをしてもらうようになったのだそうです」
富岡鉄斎が大鳥大社の宮司になったのは明治10年ですが、その前の明治8年より大鳥大社の御渡りは始まっていました。

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▲大鳥大社の宮司を務めた「最後の文人」富岡鉄斎。(写真提供:堺市博物館)


そして住吉大社の御渡りが復活したのは明治12年のことでした。これ以降は、与謝野晶子のエッセイなどにも7月31日は大鳥大社の御渡り、8月1日は住吉大社の御渡りと、二つの御渡りがあったことが記されています。
「私も宿院頓宮に来るまでは、一宮同士のお旅所なんて信じられませんでした。住吉の末社同士とかならまだわかるのですが。それが一つになれたのは、いいと思ったら取り入れる堺らしさが出ているように思います」

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▲大鳥大社には与謝野晶子の歌碑が残されている。


大正11年に、江戸時代に堺の港に勧進されていた波除住吉神社と、八田荘にあった大鳥大社の摂社大鳥井瀬神社の2社が遷座されます。これは明治39年の神社合祀令によるものでした。
宿院頓宮は社も、住吉と大鳥の2つが並んで祀られるようになったのでした。
「宿院頓宮では毎月1日祭と15日祭をするのですが、一宮同士のお旅所として、交互に住吉と大鳥から神主がやってきたそうです。今では7月31日は私が大鳥の神主になって、8月1日は住吉の神主になって、二つの神社の神主を私が1人でやっているようなものですよ」
と古布さんは笑います。

この2つの神の祭りは、時期も性質も違ったものでした。
「堺はもともと都会で、食中毒や疫病が起こりやすい夏に夏祭りをします。それが住吉祭りで、大鳥大社は農村の秋祭りです。都会の夏祭りと農村の秋祭りを同時にやっているのも、堺の珍しい所です」
2つの一宮がやってくる宿院頓宮の御渡りは、堺市民はその日を待って服を新調するほど楽しみで賑やかなお祭りでした。しかし、この賑やかなお祭りの波乱はまだまだ終わりません。


■御渡りの衰退
昭和に入って日本は戦争の時代に。日中戦争と太平洋戦争が激しくなる中、御渡りも昭和16年を最後に中止となります。そして昭和20年7月10日。B29の編隊100数機による空爆が堺を襲います。これが堺大空襲で、爆撃の目印となった大小路駅付近を中心に堺の市街区は焼け野原になり、2つの社があった宿院頓宮もこの時に焼失します。
「戦中、戦後は、御渡りどころではなくてお神輿を出すことができずに、神主さんが御霊だけを持ってこられたこともあったようです」

昭和24年になって、ようやく炎上した社も再建され、お神輿の御渡りも復活しました。住吉大社日誌という資料を見ると、
「八年目の御復興に沿道の参拝者熱狂、往年の面目を再現する日の近きを思わしむ」(カタカナ表記をひらがな表記に変換)
とあります。その言葉通り、昭和28年、29年頃の記録では、獅子舞が出たり、参拝者が多すぎて警備を強化するといった記述もみられるようになります。

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▲区画整理などを経た宿院頓宮の境内は公園となっている。見晴らしもよくなり「遊びに来る子供は増えましたね」と古布さん。


ところが、復活から10年もすると再び御渡りは衰退期に入ります。
「色々理由はあるのですが、担ぎ手がいなくなってきたのが一番大きいと思います。昭和36年から御神輿をトラックで運ぶようになったのです」
この頃には、宿院頓宮にも大きな変化が起きています。昭和36年の堺市の区画整理で、宿院頓宮の東にあった「名越の岡」が切り崩してならされ、出た土砂で頓宮の敷地がかさ上げされたのです。
「境内にある飯匙堀の前にある古い石柱は半分埋まっていて頭だけ出ているのですが、それだけ地面をかさ上げしたという証です」
区画整理もあり、かつては5000坪もの広大な敷地を誇った宿院頓宮も今は随分小さくなってしまいました。現在、お社と一体になって境内のようにも見える部分も実は公園で、お社の周囲と飛び地になっている飯匙堀だけが宿院頓宮なのだそうです。

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▲灯篭の左右にある頭だけ出ている石碑は、名越の岡を崩してかさ上げした証。今でもこのあたりに山上さんというお名前の方が多いのですが、それは名越の岡の上に住んでいたからだそうです。


当時日本は高度経済成長期の真っ盛りでしたが、区画整理などで昔の堺の姿が消えゆき、堺市民の心の拠り所だった住吉祭りは形骸化していきました。繁栄の影で目に見えない所では、一足も二足も早く地域の衰退がはじまっていた事だったようにも思えます。


■地域の復活を目指して
御渡りが往時の姿を取り戻す方向へと動きだしたのは、平成17年の堺高石JCの40周年がきっかけでした。
「JCから昔のような御渡りを復活させたいというお話があって、翌年の平成18年から再び御神輿を担いで御渡りをするようになったのです」
これも実に45年ぶりのことでした。
それから10年たったのですが、古布さんはまだまだ宣伝不足と感じることが多いのだそうです。
「少し南の方へ行くとまだまだ御渡りの復活を知らない人が多いんです。10年、20年かけても(認識が)埋まるんだろうかと思います。そのためにも、これからは神社だけでなく色んな所とタイアップしていく必要があるでしょう」

かつては日本に知れ渡った御渡りも堺も知名度がすっかり低くなってしまったからこそ、地域と一緒に住吉祭りを大きくしていきたいと、古布さんは様々な努力をはじめました。
「春には桜祭りを開催したり、お借りして子供神輿をしたり、住吉祭りには市長さんにも来てもらえるようになりました。復活した御渡りのお神輿のルートも、大道筋から大小路で東に曲がって南宗寺線を通って宿院頓宮に宮入をしていたのを、わがままを言って南宗寺線ではなく山之口商店街を通ってもらうようにしたんです」
また、御渡りに和太鼓チームや火縄銃の保存会にも協力してもらえるようになりましたが、これをさらに生かすアイディアもあります。
「道路を使ったパフォーマンスをもっと取り入れていけたらと思っています。ザビエル公園あたりに観覧場を作ってもいいでしょう。大道筋がずっと華やかになるようなイベントになれば注目が集まると思うんです。堺市や企業にも協力してもらって、たとえば山之口商店街には着物屋さんも多いですから、レンタル着物をしてもらって着物を着ていたらバス代が安くなるとかもどうでしょうか。御渡りももっと南まで行ってもらうとか、大鳥大社の御渡りも全行程は無理でも途中から担いで行列にするとか、堺市をカンバスにして31日と1日は堺のどこかで何かをやっているようにしたいですね」
それは、南蛮人も驚き、江戸時代も明治以降も堺の人たちを熱狂させた、暑い暑い住吉祭りの再来といえるのではないでしょうか。

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▲宿院頓宮の前を通るフェニックス通りには両大社頓宮の石碑がある。


「守るものは守らないといけない。でも、変えていくものは変えていかないと。若い子たちに寄っていくことも必要でしょう。魅力あるまちには若い子も来やすい。この町で住んでいこうという原動力もあがっていくでしょう。私たちはお祭りで儲けたいとかではないんです。そんなことは考えていません。大切なのは老若男女が、同じ行事で連帯感を持つこと。もともと神社やお寺がなぜ出来たのかというと、地域の人々の平安や安定のためです。いかに、まちへの恩返しが出来るか、地域貢献できるかが大事だと思います。一回できてしまったら、まちが無くなるまで神社はあり続けるはずなので、いかに一緒に歩いて行けるか。それが祭りの原点だとも思います」
堺のアイデンティティと深く結びついた住吉祭りは、御渡りの廃止をきっかけに住吉と大鳥の2つの一宮の御渡りがある他にないお祭りとなりました。さらに一時は風前の灯火となったものの、今現代的な地域活性化の課題とともに再生の時を迎えています。
それは常に新しいものを取り入れては発展し続けてきた堺らしいものだと思えます。21世紀の住吉祭りが、どんなお祭りに成長していくのか見届けたいですね。



宿院頓宮
堺市堺区宿院町東2丁-1-6 


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