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雑記帖 No.132

二柱の神が渡る宿院頓宮の謎 (1)

切っても切れない住吉大社との縁

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8月1日。摂津一宮の住吉大社からお神輿が、大和川を越えて堺に渡ってきます。
「御渡り」と呼ばれるこの神事は、最近注目を集めるようになりましたが、実は戦国時代の末期には宣教師ルイス・フロイスが書き記した盛大なお祭りで、さらに起源をたどると神話の時代にまで遡ろうかという古い神事なのです。
お神輿が一夜お休みするのは宿院頓宮ですが、この頓宮には前日の7月31日にもう一柱の神様がお渡りになります。それは和泉一宮の大鳥大社の神様です。
大阪市と堺市、旧国の摂津と和泉の境を越えることも異例なら、まったく由縁の違う二柱の、それも一宮同士の二柱の神様がお渡りする神事はおそらく他にないものでしょう。
どうしてこんな神事になったのか、お話を伺いに堺区の宿院頓宮を訪ねました。


■越境する祭
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▲住吉大社から派遣されている宿院頓宮の権禰宜古布智寛さん。

御渡りの起源を語ってくれたのは、住吉大社宿院頓宮の権禰宜古布(こぶ)智寛さんです。
「御渡りの起源は神功皇后の三韓平定に遡ります」
神功皇后は14代天皇仲哀天皇の后で、古事記では神話と歴史が入り混じる中巻の末尾に登場する人物。三韓平定とは、神功皇后が住吉の神のお告げで海を渡って朝鮮半島の新羅・百済・高句麗の三国を攻めたという伝説です。
「戦わずして三韓を平定した神功皇后は、壱岐を経て、瀬戸内海を通り、堺に到着します。船がついたのは石津なのか七道濱なのか諸説ありますが、ともかく堺についた。堺に船尾という地名がありますが、それは神功皇后の船団が着いたことに由来します。またこの近くの甲斐町は、神功皇后がかぶっていた兜(甲)を脱いだ故事に由来します。宿院頓宮でも兜をお祀りしていました」
そして地名だけでなく、神功皇后伝説は堺のまちのアイデンティティに繋がっています。
「神功皇后は新羅からの貢物を持って帰ってきて、それを堺の地に住む人々に配ったのが、市の始まりだともされています」
堺商人の出発点も神功皇后だった。もちろんそれは後付けで、堺の商人たちが自分たちの起源を神功皇后に求めた、ということの方が真実に近いかもしれませんが。

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▲今は石碑だけが残る兜神社の痕跡。


ともあれ、神功皇后がお休みした場所がお旅所(宿院頓宮)となり、お告げによって住吉の神を祀る住吉大社も建てられます。そうして住吉大社と宿院頓宮を行き来する「御渡り」が始まります。
「記録によると、御渡りの行列に参加する団体も時代によって増えたり減ったりして違うので、当初どんな行列だったのかよくわかりません。住吉の神のお神輿を七道のあたりでお祓いしたようですが、お祓い所の場所がどこだったのかも正確にはわかっていないません」


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▲堺旧港を見守る龍女神像。神功皇后伝説に由来する堺の港にはふさわしい守護女神でしょう。


しかし時代が下るにつれ「御渡り」は、盛大なお祭りを伴うようになります。
鎌倉時代に始まったとされる「大魚夜市」は御渡りの前日である7月31日に行われますが、もともと住吉大社に奉納するものの余りを市を立てて売ったのが起源でした。
「御渡りを堺の人たちは最近まで住吉さんの里帰りととらえて、南祭(なんさい)と呼んでいました。一番盛大だった時期は日本各地からだけでなく朝鮮からも物品が来たそうです」
堺市役所には、戦国時代に南蛮人も見た御渡りの行列が住吉祭礼絵図として残されていますが、明治時代以降も盛り上がりは続いたのです。大浜に水族館が出来たあとは、お神輿は大浜に一泊して、さらに水族館に一泊して、それから宿院頓宮に一泊するということもあったようです。お祭りの見物に5万人もの人が押し寄せ、大浜の砂浜で寝る人が多すぎて警察から砂浜で寝るなと禁止令も出ています」
南海電鉄も見物客を運ぶために朝4時から晩の11時までひっきりなしに電車を走らせたそうです。

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▲明治から大正にかけては日本有数のリゾート地だった大浜公園。大魚夜市の日には、賑やかな様子になります。


「お年寄りなどにお話を聞くと、堺では7月31日には服を新調して、子供はお小遣いをもらって無礼講だった。まちでは水あめやスイカが無料でふるまわれ、まちをあげてお祝いをした。でも神様がお通りになる1日は静かにして、2階の窓も閉めて、提灯を持ってお迎えをしたんだそうです。このように堺の住吉に対する信仰はものすごいもので、昭和57年までは、(自転車の)シマノや銀行も7月30日から8月1日までは会社をあげてお休みになったそうです」
この住吉に対する信仰の篤さは、住吉こそが堺の原点であったからであり、宿院頓宮の歴史からもずっと篤い信仰があったことが見て取れます。


■三国の境から

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▲堆積層である堺の市街地は昔から良水の出る井戸に恵まれ、宿院も元は宿井だったそうです。

堺という地名は、もともとは「さか井」と書き、次いで「境」となり、今は「堺」となりました。
地名の由来は、摂津・河内・和泉の三国の境にあたるからで、三国丘が丁度三国の境でした。堺の環濠内では、大小路が摂津と和泉の境で、大小路より北が摂津の北荘、南が和泉の南荘とされました。
「宿院頓宮は和泉の南荘にあったのですが、摂津一宮の所領だったのです。御渡りのお神輿も、宿院頓宮を通り越してもっと南まで行っていたようなふしもあります。私は、堀之内(環濠内)だけは摂津として扱われていたんじゃないかとも思うんです」
その当時の宿院頓宮の大きさは東西に一丁半。5000坪という広大さでした。それだけの所領が長い歴史の中で継続して支えられてきたのも、信仰心の大きさがあってこそでしょう。
「堺の人にとって、住吉さんは心の拠り所になっていたのでしょう。実は住吉大社には、堺の南祭に対して北港の北祭もあったのですが、今はもうありません。また、住吉さんにいくと堺とつながりのあるものが幾つもありますね。たとえば住吉さんの紋菓は、堺の山之口商店街近くの丸市菓子舗さんのものですし、お茶はお向かいの西尾茗香園さんのものです。住吉大社の『はったつ祭り』の猫人形は、ずっと堺焼......堺では湊焼といいますね......で作られていました。他にも探せばきっと住吉と堺をつなぐものが沢山でてくるんじゃないかと思いますよ」

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▲住吉大社と縁の深い西尾茗香園さん(左)と丸市菓子舗さん(右)は、宿院頓宮からもすぐです。

このように住吉と堺の縁は切っても切れないほど深いものでした。しかし、現在宿院頓宮の前にある石碑などには、「住吉大鳥両大社頓宮」と書かれています。
大鳥大社は和泉一宮。摂津一宮の住吉大社とは同格で、お祓いの神様・海の神様である住吉さんに対して、大鳥大社の祭神は日本武尊で武勇の神様です。まるで違う二柱の神様のお旅所になったのは、なぜなのか後篇ではその秘密に迫ります。

宿院頓宮
堺市堺区宿院町東2丁-1-6 

(後篇へ)

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