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雑記帖 No.119

最後の文人が堺に遺したもの(1)

「富岡鉄斎 -和泉国 茅渟海畔の寓居にて-」展を前に

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骨董やアート、歴史好きなら富岡鉄斎の名前はご存じでしょう。幕末から明治にかけて活躍し「最後の文人」と呼ばれた人物です。京都の画家というイメージが強いのですが、本人は「自分は絵描きではない」と言っており、また明治のはじめに堺の大鳥神社で宮司を務めていたことは堺の人にもあまり知られていないことでしょう。
在籍した年数は短いものだったのですが、鉄斎は廃仏毀釈の後に荒廃した大鳥神社を復興するために私財を投じるなど心血を注ぎます。
一体、どうして鉄斎はそこまで大鳥大社に尽くしたのか、そしてそもそも鉄斎とはどんな人物だったのでしょうか。

実は2017年の6月から7月にかけて、堺市博物館で富岡鉄斎展が開催されます。展覧会の準備に追われる担当学芸員の宇野千代子さんに、お話を伺いました。


■美しき記録画
今回の展覧会の目玉といえるのは「堺県行幸道筋官幣大社御陵位置図巻」です。
1877年(明治10年)に行われた明治天皇の関西行幸に際して、当時の堺県令税所篤の命によって、明治天皇が京都から堺へ向かった道筋と、道中にある大きな神社や天皇陵を鉄斎が描いたものです。
「これは鉄斎と同時代の画家のことを調べていた時に、岐阜県の荒川豊蔵資料館に所蔵されていることがわかったんです。借用をお願いしたところお許しをいただけたので、今回展覧会ができることになりました」
今年は、明治天皇行幸から140年という年にもなります。

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▲「堺県行幸道筋官幣大社御陵位置図巻」(一部)。右端が堺の市街で、右上から下にかけて履中天皇陵、仁徳天皇陵、反正天皇陵、方違神社が描かれている。



この絵図は、堺から長尾街道を東へ進み、百舌鳥古市両古墳群を眺めながら奈良盆地へ至り、今井町から大和三山・三輪山のふもとを抜けて南都奈良の都を越え、山城の境までが描かれています。
「廃仏毀釈で興福寺が破壊されようとしていた様子など、当時の様子がわかって興味深いですね」
そんな時代の生き証人ともいえるのが、この絵図です。そして記録画でありながら、記録画としての範疇を越えた芸術としての美しさも備えた絵画になっています。こんな絵を描いた富岡鉄斎というのはどんな画家だったのでしょうか。
「幕末、明治の激動の時代を生きた人で、近代文人画の巨匠といった言われ方をします。89才の長寿ですが、お勤めしていたのはわずかな期間で、ずっと絵を描いて生活をしてました。それまでも文人画というジャンルはあるんですが、鉄斎は独特の文人画の世界を作りました。江戸時代の絵師は職人的でしたが、鉄斎は個性を出していく。山水画も独特の勢いのある筆遣いで人気があります」
そんな鉄斎ですが、堺時代の絵はファンからも注目は集めていませんでした。
「公務員(神職)としてお勤めしている時代で、この行幸の図巻も県知事から注文を受けて描いたものです。この頃の絵は、後年の自由奔放でパワフルな筆遣いの作品にくらべると、まじめなせいか絵画芸術としてはあまり人気がないようです。しかし、ただの絵地図とは一線を画していて色使いも綺麗で、この行幸の図巻もまるで自分が旅をしている気分になれます」
宇野さんもすっかりほれ込んでいる様子です。
江戸時代の絵師が職人だとしたら、鉄斎は芸術家。しかし、どうして鉄斎は独特の世界を作りあげることが出来たのでしょうか。
「鉄斎は耳が悪かったんですね。それもあってビジュアルに特別な才能があったのかもしれません。それに鉄斎は、狩野派のような絵師の家系ではなくて、商人の次男なんです」
それでは、鉄斎の半生を追ってみましょう。


■勤王の志士たちと交流
鉄斎の生家は京都でお坊さんの服を扱う法衣商でした。
次男で耳が悪かったこともあり、父親は鉄斎を商売にはかかわらせんませんでした。そのかわりに鉄斎に学問を身につけさせようとし、鉄斎は父の意向に従って国学・儒学・漢学といった学問を修めます。

青年期には、勤王家の尼・大田垣連月尼の学僕となりますが、この連月尼は勤王家であるだけでなく、歌や焼き物もする芸術家肌の人であったことが、鉄斎に大きな影響を与えたようです。この師匠の影響もあって鉄斎は、思想としては勤王思想を持ち、学者でありながら芸術家という多面的な存在になったようです。

勤王家で後に神主となる鉄斎ですが、作品からは、思想のベースとなるのは儒学や漢学の素養で、そこに国学が加味されたものであったことがうかがえます。
鉄斎は、中国古典の世界に耽溺し、文人のたしなみとして煎茶を愛好します。文人の煎茶は、書斎で一人で煎茶を楽しんだり、仲間と一緒に煎茶を飲みながら茶会で漢詩を読んだりするものだった。その熱心さは、煎茶に関する中国語の書籍を和訳した本を出したことにも表れています。
抹茶にも興味をもち、千利休の椿井や、故事をテーマにした絵もかいています。ただ、鉄斎は千利休のことは気に入らなかったようです。どうやら、千利休が天皇陵の宝篋塔を墓標にしたという伝説を信じたのがその原因で、さらに信長や秀吉の下で茶の湯を武器に権勢を誇り大儲けした千利休の生き方も認めることは出来なかったようです。鉄斎は竹林の賢人のごとく、俗世間から離れ、清く自由に生きることを理想とした人だったのでしょう。

鉄斎の座右の銘は「万巻の書を読み、万里の道を行く」は、明代の文人画家董其昌の言葉で、文人の理想の姿です。その言葉通り、鉄斎は並外れた読書家であるだけでなく、幕末から明治にかけて盛んに旅行もしました。陵墓や勤王遺跡などを巡り、その道程は国内の30数都道府県に及んでいます。明治7年には北海道にも旅して、アイヌの風俗を描いた「旧蝦夷風俗図」は代表作の一つとなります。

書斎に閉じこもりきりの学者ではなく、鉄斎は生活や行動、生き方を通じて思想を体現しようとする人物だったのでしょう。だからこそ、幕末には薩摩藩の勤王グループである精忠組と交流を持つようになります。中でも精忠組の1人、税所篤との出会いが、鉄斎を堺へ導くことになります。

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▲大鳥大社の宮司になった富岡鉄斎。老人になってからの写真が有名ですが、壮年期はなかなかのイケメンですね。


明治維新後。
明治6年に鉄斎は湊川神社の権禰宜に命ぜられます。もともとは宮司にという話だったのに、地位の低い権禰宜だったことは、鉄斎には不満ですぐに職を辞します。明治9年には、石上神社の少宮司となります。これも意にそわないことがあって辞職しようとしますが、ある人に引き留められます。
気難しい鉄斎を引き留めたのは、幕末の動乱期に知り合った薩摩藩出身の志士・税所篤でした。当時堺県の2代目の県知事となった税所篤は、鉄斎を大鳥大社の宮司に推します。
大鳥大社は、古代に神社の格式をまとめた延喜式には泉州一宮とされる由緒ある大社で、近代においては官幣大社という政府が認めた格式の高い神社でした。一方で、神仏習合の時代に行基開基の神鳳寺と一体化し、江戸時代にはむしろお寺として知名度があるぐらいで、明治に入って廃仏毀釈の荒波をかぶって、まったく荒廃していました。
格式ばかり高い荒れ社。そこに鉄斎は赴任してきたのです。

後篇へ

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