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雑記帖 No.116

木津川千年物語(3) 仏の道をゆく 小田原

聖なる辺境 小田原

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堺出身の僧・行基は、宿泊施設を作り、橋を架け、ため池を築きました。行基の痕跡は伝説的なものを含めると日本全国に広がります。
その中でも確かとされるのが行基建立の寺院・尼院四十九院で、今に残る数少ない四十九院のひとつ泉橋寺は木津川にかかる泉大橋のたもとにありました。行基を追う「行基のまち」シリーズでは、前回は泉大橋の両岸にある京都府木津川市の山城地区と木津地区を歩いたのですが、案内してくださった市職員の方の「木津川市にはどの地区にも行基ゆかりのものがあります」との言葉もあり、今回は加茂地区を訪ねることにしました。


■色と形から意味を感じる
木津川市は、山城町・木津町・加茂町の三町が合併したのは2007年。それ以前に加茂町も、加茂町に当尾村(とうのむら)、瓶原村(みかのはらむら)が合併して大きくなった経緯があります。最初に当尾エリアにある高雄山岩船寺へ向かいました。
「このあたりはかつては小田原と呼ばれていました。小田原というのは、ここだけでなく辺境にある聖域に名付けられる地名だったようです」
案内してくださったのは、木津川市の職員西谷昌豊さんと、観光協会の渡辺紀子さんです。西谷さんがハンドルを握る車は、おしゃべりをしているうちに山道を登り続け岩船寺に到着しました。
木々に包まれた山中は標高の差もあって、街中よりも大気がひんやりとしています。

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▲岩船寺は「あじさい寺」の名でも親しまれています。オフシーズンで残念でしたが、境内のアジサイはすべてご住職が世話をされているものだとか。


室町時代にできた重要文化財の三重塔を横目に本堂にあがると、植村幸雄住職がまってくださっていました。行基のゆかりを探しに堺から来た事を告げると、
「(行基の墓がある)竹林寺を中心に行基会という宗派を超えたお寺の集まりで活動しています。東大寺や大阪(堺)の家原寺も行基会に入っていますよ」
この岩船寺は四十九院の中には入っていませんが、729年(天平元年)聖武天皇の霊夢によって、行基が阿弥陀堂を建立したのに起源をもつと伝えられています。
重要文化財である阿弥陀如来像も行基作と伝えられていますが、出来たのは946年(天慶9年)とされています。
「そうすると年(行基の没年は749年)が合いません。さて行基さんが型でも作っていらしたのか」
と、植村住職は笑みを浮かべます。

このお寺が弘法大師空海の姉の子である智泉大徳によって堂塔伽藍が整備されたのは822年(弘仁13年)で、岩船寺と名付けられます。
「修行僧たちが使った石の風呂があって、船に似ているから岩船と名付けられたと偉い先生がおっしゃったので、そう広まったのですが、それもどうでしょうか」
天の磐舟伝説など、由来には諸説があるようです。

岩船寺は、真言宗から分かれた真言律宗に属します。
「歴史上、天皇家から菩薩と称された方は4人いらっしゃいました。行基菩薩、興正菩薩、忍性菩薩、覚盛菩薩の4人です」
この興正菩薩こそが真言律宗中興の祖とされている方です。
「興正さんは、『興法利生』、すなわち仏教を盛んにし、民衆を救済することを掲げた方なのです」
お話しを伺っていると参拝の方がいらっしゃいました。御朱印をいただきにこられたようで、しばし住職のお話は中断です。


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▲植村住職は15年間保護司もしていました。今も檀家の方や、参観に来られる方からの相談を受けます。「お寺の仕事は法話をすること、人と対話をすることです。でも、夜中まで電話がかかってきたら、これは大変です(笑)」

「最近は御朱印ブームで多くの方が来られます。特に普賢菩薩騎象像の御朱印は大人気ですね」
普賢菩薩騎象像は、この岩船寺にある普賢菩薩が象に乗った仏像でこちらも重要文化財です。
「美術の範囲から入ってこられてもいいんですよ。言葉からだと間違って伝えてしまうこともあるけれど、色と形からだとそれぞれの受け取り方で受け取れる。仏さまのお姿にはみな意味があります。この阿弥陀像も四天王に守られていますが、持国天には自覚、増長天には努力、広目天には広い目で世間を見ること、多聞天には多くの人の教えを基にすることという意味があります。この4つを持っていれば詐欺にあいませんよ、と私はよくいうんですが、4つのガードに守られた人格者が阿弥陀如来なんです。この配置が教えなんです。曼荼羅とは、相互供養・相互礼拝、支えあう精神を表しているんです」


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▲四天王に守られる阿弥陀如来。手前には東日本大震災追善供養の結界がはられていた。


植村住職からは、もう一つ教えていただきました。
「自灯明とは、『他者に頼らず、自己を拠り所とせよ、法を拠り所とせよ』ということです。よく先祖のために供養をしなくてはいけないといいますが、先祖のためじゃない。自分のために供養はするんです」
自灯明の精神は、例えば行基が行った福祉活動です。
「行基さんの精神を受け継いで、真言律宗では社会福祉財団を設立して活動したり、東日本大震災や熊本地震でもボランティア活動を行いました」
売名行為と見られたこともあったそうですが、この日も本堂では東日本大震災の7回忌の追善供養がされていました。



■石仏の道・修行の道
今、当尾と呼ばれているこの地は、かつて塔尾という字もあてられました。それは山の尾根に寺院の塔が数多く連なっていたからだともいわれます。行基も学んだ大和の東大寺は学識の場で、東大寺からほど近い塔尾(小田原)は瞑想の地でした。霊気を帯びたような山中で石仏を刻むのも、僧侶たちの心の修行だったのです。
岩船寺にも不動明王の石仏が残されていますが、奈良から続く「石仏の道」が岩船寺、そして浄瑠璃寺へと続いています。
「石仏の道は柳生一族の故郷柳生にも通じていて剣豪の道でもあるんですよ。吉川栄治の小説にもこの道についての記述があります」
宮本武蔵や柳生十兵衛なども歩いた道なのでしょうか。

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▲谷へ降りていく石仏の道。左手の平らになった岩の表面にうっすらと磨崖仏が刻まれている。

岩船寺を後にして、車は石仏の道へ向かいました。道の入り口には、岩に刻まれた磨崖仏がありました。この磨崖仏の作者は、鎌倉幕府を開いた源頼朝が中国の宋から呼び寄せた石工・伊一族の子孫である伊末行の手によるものです。

伊末行の作品は、道の途中にもあります。巨岩に刻まれた3体の仏さまは微笑みを浮かべており、「笑い仏」と呼ばれています。
車を降りて、実際にこの目で見て驚かされたのは、まるでつい最近できたばかりにしか見えない姿です。巨岩の上部が庇のように突き出ており、雨風から仏さまを守っていたからでしょうか。昭和や平成の作品と言われても信じてしまいそうなほど、仏さまの目鼻立ちはくっきりとしています。そして3体の仏さまは、なぜか水平ではなく斜めに傾いて彫られています。その理由は明らかになっていません。
「これは最初から斜めに彫られていたのか、彫った後で岩が斜めに傾いたのかどっちだと思います?」
そう尋ねられても、こちらとしても首をひねるばかり。わざわざ斜めに彫るとも思えないので、常識的に考えれば時代とともに傾いたのでしょうか。
植村住職のいうように姿かたちが教えだとしたら、この仏さまは何を伝えてくださっているのでしょうか。風雪に耐えたのに斜めになった石仏、祖国に帰らず日本に残った伊氏。色んな不思議を秘めたままた笑い仏は謎めいた笑みを浮かべています。


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▲笑い仏は、木津川市も観光コースとして力を入れる石仏の道でも人気の高い仏さま。


■行基の末裔
車は石仏の道を抜け、岩船寺と同じ真言律宗の浄瑠璃寺にたどり着きました。お寺の山号は小田原山。
浄瑠璃寺も行基のゆかりが伝えられていますが、建立は平安時代で、当然四十九院には入っていません。
一方で、このお寺は国宝がぎっしりとつまったお寺です。まずその境内にある浄瑠璃寺庭園は、あの世とこの世を表した浄土式庭園で特別名勝及史跡に指定されています。国宝である三重塔から庭園を挟んで見る本堂も国宝ですし、本堂に収められた9体の阿弥陀如来像「九体仏」も国宝です。にもかかわらず、驚くことに庭園の入場料は無料で、本堂の拝観料も安価です。

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▲浄瑠璃寺の国宝のひとつ「三重塔」。


浄瑠璃寺の佐伯功勝住職にもお会いして訪問の目的を話すと、行基とのゆかりを教えてくださいました。
「このお寺は行基さんが開いたといわれている。以上、なんですよ。一言で済んでしまいます」
何しろ、岩船寺の阿弥陀像と同じく史実をもとにすると行基の生没年と開基の時代が違います。
「浄瑠璃寺は藤原氏の藤原文化を今に忠実に残しています。9体の阿弥陀仏は当時の最先端の技術によって作られました。平等院と同じことを表現しているのですが、こちらは質素ですね。当時は京都市内に30ほど、質量ともに豪華な藤原氏のお寺がありましたが、現存するのはここだけです」

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▲絢爛豪華な藤原文化を体現した九体仏。

これだけの貴重なものが、無料/安価で拝観できることについても尋ねてみました。
「2代前の住職の時から開放するようになりました。朝の散歩がてらに庭園を見ることもできます。よく庭の拝観料を取れば? といわれるのですが、誰もが足を踏み入れられるようにしたいので、行ける限りはこれで行きたいと思っています」
浄瑠璃寺も岩船寺と同じ真言律宗で開かれたお寺を目指されているのでした。

ただ一言で済んでしまう行基さんについては、どういう人だったと思われているのでしょうか。
「行基さんは、国に影響を与えたけれど、民衆を向いていた人だと思います。奈良時代は仏教は国の宗教でしたが、行基さんに限って言えば民衆に入って心を掴んだ。民衆を利用したという側面もあるでしょう。お大師様(空海)にも似ておられた。国というパイプ、民衆のつながりを持っていた。聖と俗の両面を持っておられた方だと思います。そこを僕らも大切にしたい」
聖と俗の両面を持つ行基。その系譜は、空海から、ずっと下って岩船寺の植村住職にも、浄瑠璃寺の佐伯住職にも続いています。

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▲西方浄土として仏さまを拝めるように配置された浄土式庭園。しかし、美しい自然に囲まれたこの浄瑠璃寺からわずか数百メートル離れた先に、奈良県がごみ焼却施設の建設を計画している。境内ではそっと反対署名が集められ、アピールの缶バッチは九体仏がデザインされていた。

寺院や仏像が行基の手によるものかは伝説であったとしても、行基の精神は今に生きている。辺境の聖地・小田原(当尾)では、そんな出会いがありました。
ではより確かな史実が残る地ではどうでしょうか。聖武天皇の命で行基が建設に協力した恭仁京がある瓶原エリアに向かい、木津川を渡ります。


(後篇 木津川千年物語(4)へ)

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