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雑記帖 No.108

木津川千年物語(2) 橋でつなぐまち 大智寺

文殊菩薩の化身

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堺生まれの僧・行基ゆかりのまち木津川市を、地元の地域史研究家・中津川さんらの案内で行基の足跡を訪ねる旅。前篇では行基の作った四十九院の中でも、数少ない今に残る北岸の泉橋寺にまつわる話を取り上げました。

西暦740年(天平12年)に、行基が知識と呼ばれる民の集団を率いて、木津川(当時は泉川)に泉大橋と呼ばれる橋を架けました。ここは奈良の平城京から、日本海へ向かう北陸街道という重要な街道でした。泉大橋の北詰には泉橋寺が作られ、宿泊施設や修行道場として機能しました。その対岸には、現在橋柱山大智寺というお寺が建っています。このお寺が出来たのは、鎌倉時代の1288年(正応元年)と随分後のことですが、行基にまつわる不思議な伝説が残っていました。
後篇ではその伝説に迫ります。


■光る橋柱から彫られた菩薩像
740年に架橋された泉大橋は何回か架けられたのでしょうか。最後は876年に流され、ずっと橋は架けられないままでした。
伝説によると、1288年、もう一度橋を架けようとしたところ、流された後も川に残されていた行基の橋の橋柱が光っているのが発見されます。これはどうしたものかと、地元の人たちは、西大寺の僧慈心に相談します。
「慈心さんは、光る橋柱を使って文殊菩薩を彫るようにとすすめたのです」
と、中津川さんはいいます。
こうして出来た文殊菩薩像をおさめたお寺がこの地に建立されました。当初はこの縁起から橋柱寺と称し、現在は橋柱山大智寺というお寺になっています。
お寺を訪ねると、現在の住職大橋忍彦さんにお話を伺うことが出来ました。


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▲真言律宗・橋柱山大智寺。木津川の土手の間際にあるお寺ですが、これまで水害や戦災などで被害を受けたことはなく、本堂などは鎌倉時代の創建当時のものです。


大橋というお名前は、いかにもこのお寺に由縁がありそうな名前です。ところが......。
「先代である父が、別のお寺の娘であった母と結ばれてこちらに来させていただいたので、関係がありそうなのは偶然です」
先代は、大智寺に変化をもたらしたといいます。
「それまでは文殊菩薩像は秘仏として厨子の扉を開けることもありませんでしたが、先代の時に厨子を開けて公開するようにしたのです。するとお寺も活気づいてきたように思います」
私たちも本堂にあげていただき、文殊菩薩像と対面させていただきました。立派な厨子の中にいらしたのは、獅子の上に座す文殊菩薩でした。700年以上の時を経たこの仏像は、重要文化財に指定されています。
厨子も本堂と一体化した立派なものですが、この厨子も本堂も建立当時のままだとか。長く守られてきたお寺なのですね。

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▲長らく開けられず秘仏だった文殊菩薩像。実践的に人々のために行動する菩薩行に努めた行基は死後「文殊菩薩の反化(変化)なり」と称されるほどでした。


この厨子の中には、もう一尊、脇像として仏様が控えらしていることに気付きました。
「こちらは十一面観音像で、平安時代のものです」
この観音像も重要文化財に指定されています。行基縁のお寺・誓願寺の本尊であったものが、どういう由縁でか大智寺に安置されることになったのだそうです。

「こちらの十一面観音像は、古寺巡礼展という展覧会に一度出させていただいたことがあるんです」
この展覧会は南山城地域がはじめて本格的に取り上げられた展覧会ということもあって、非常に注目されたそうです。
「展覧会が終わってからも、展覧会に行かれた方が、普段の様子も見たいからと、お寺に見学に来られたこともあるんです」

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▲文殊菩薩像の脇像として控えておられた十一面観音像とツーショット。


そちてついに一度も大智寺から出たことのない文殊菩薩像も、外でお披露目されることになるとか。
「『西大寺1250年記念展』があべのハルカスで開催されます。そこに文殊菩薩像も出ることになりました。時期は2017年の7月中旬から8月ごろになりそうです」
神秘的な伝説をまとった仏さまの公開は仏像ファンなら見逃せないのではないでしょうか。

これまであまり注目されてこなかった木津エリアの文化財も、木津川市になってからは、注目度もあがったそうです。大智寺でも、事前に連絡していただければ、本堂を見学してもらうことも可能だとか。地域に開かれた現代のお寺として、積極的な役割を果たされているようです。

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▲大智寺の住職・大橋忍彦さん。僧名も忍彦で「にんげん」と読むそうです。


■行基のつないだまちの今
泉橋寺と大智寺をつなぐ形で架かっていた古代の「泉大橋」は、現在は東に移動し国道24号線上に架かっています。
10年前まではこの川が南の木津町と、北の山城町の境となっていました。しかし、川を境と考えるのは現代的な考え方で、船が日常的な交通手段であった時代には川は両岸を結びつける機能も果たしていました。
「もう少し上流にいくと、両岸で一つの村というところもあるんですよ」
と、今回の探訪をコーディネートしてくださった木津川市の西谷昌豊さんは言います。
山城国(京都)と大和国(奈良)の国境も、この木津川ではなく、もう少し南の平城山(ならやま)のあたりだったそうです。
「木津川もダムが出来るまではもっと水量があって、中州もなかったそうです。鉄道やトラックが流通の主役になるまでは、船による輸送は盛んに行われており、この辺りにも船宿があって、船を岸につけてそのまますぐ宿にあがれるようになっていたそうです」
木津の津とは、港という意味です。木津は内陸の港町だったのです。伊賀方面から木材などが運ばれて、ここから南の奈良へ、北の京都へ、あるいはそのまま川を下って大阪、明治に入ってからは神戸へと荷物が行き交ったのだそうです。


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▲泉大橋から東の上流方向の加茂地区には、鹿背山、その向こうには恭仁宮があった。

橋の上に立つと、南に木津エリア、北に山城エリア。上流に目を移すと鹿背山(かせやま)の向こうに加茂エリアがあります。
「和歌の枕詞『みもろつく』は、この鹿背山と三輪山にだけ使うことが出来る枕詞でした。どちらの山も神様がいらっしゃる神聖な山です」
古代からの流通を担った木津川と神聖な鹿背山を抱き、三つのまちが合併して新たに生まれた木津川市ですが、この10年の歩みは順調なのでしょうか。
この土地で生まれ育ち、木津川市の職員としてまちの魅力づくりに取り組んでいる西谷さんに尋ねてみました。
「三つのエリアがそれぞれ個性があって、バランスがいいと思います。伊賀方面と関係の深かった加茂エリアは恭仁京があったという誇りがあり、山城エリアは国一揆の環濠集落がありお茶問屋街が今もあります。木津エリアは学研都市として新たに開発されて人口が増加しています」
交通の要所であるために、通過点としてのイメージも強かった木津川市の魅力を発信するための試みは始まったばかりだといえそうです。

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▲木津川北岸の土手から西の下流方向に日が沈む。


泉大橋からは、木津川の西へと夕陽が沈んでいきます。泉州堺からは東に見える生駒山、行基の眠る山も日の沈む西に見えます。
今回は山城の泉橋寺、木津の大智寺を泉大橋がつなぐ二つのお寺を紹介しましたが、三つのエリア全ての行基の足跡があるそうです。そしてどうやら、行基以外にも堺と木津川市を結ぶ縁も見えてきました。
「行基のまち・木津川市編」は、これからさらにディープに木津川市を探訪していくこととしましょう。


木津川市マチオモイ部観光商工課
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