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雑記帖 No.107

木津川千年物語(1) 橋でつなぐまち 泉橋寺

歴史的な2人の出会いの寺

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奈良の都を出て一路北へ日本海へと続く道は、東より西へ伊賀の高原に端を発して淀川へと流れ込む大河・木津川を越えなくてはなりません。1300年近くも昔に、この川、この道に橋をかけたのが、堺出身の僧・行基でした。

行基の伝説が今も残るまちを訪ね歩く「行基のまち」シリーズ、能勢につづく二つ目のまちは、木津川市。京都府の南端にあり、10年前に木津町・山城町・加茂町の3つのまちが合併して生まれた、実は新しい町です。個性の違う3つのまちが、現代アートの芸術祭「木津川アート」をきっかけに、アイデンティティを模索する試みをはじめたことは、すでにご紹介しています。そして今回からは、実際に木津川市のディープな魅力を訪ね歩いていくことにしましょう。


■行基の国家事業
今回の探訪を案内してくださったのは、木津川市の地域史研究家・中津川敬朗さんと、市の職員の西谷昌豊さん。そして観光協会の渡辺さんです。中津川さんは言います。
「万葉集には、このあたり山城国南部だけで120首以上のうたが詠まれています。その道ゆきの歌を見ると、『さをさしわたり』とあり、船でこの川を渡っていたことがわかります」
当時は泉川と呼ばれたこの川に行基が橋をかけたのは、西暦740年(天平12年)のことでした。その時に、現在も北岸にのこる泉橋寺のもととなった施設が、橋のたもとに作られたといいます。

木津川は決して大人しい川ではなく、行基の架けた古代の「泉大橋」も何度も架けられましたが876年にを最後に流され、その後明治時代になるまで架橋されませんでした。現在の泉大橋は、国道24号上に架けられていますが、その前には少し西の「作り道」と呼ばれている道に架けられていました。この大正時代に架けられた橋はコンクリート製の橋柱だけが今も川面から覗いています。

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▲大正時代に架けられ昭和28年に流された橋のコンクリート製橋柱が今も川面に残る。


はたして行基の手による泉大橋はどこに架けられたのでしょうか。
はっきりした証拠がないため、断言するのは難しいのが現状です。しかし中津川さんは、やはり「作り道」の延長にあったと考えるのが自然ではないかと考えています。
「作り道に架けたとすると北岸の泉橋寺と南岸の大智寺を結ぶ形になり、そのまま南に向かうと平城京の脇を通っています」

そしてこの説を補強するのが、まぼろしの都と言われ、わずか3年間だけあった「恭仁京」(くにきょう)の存在です。
泉大橋架橋と同じ740年(天平12年)の暮れも押し迫る12月15日に、時の聖武天皇による勅命で平城京よりこの地に遷都されたのが恭仁京です。天皇のおわす恭仁宮があり政治の中心である左京は加茂地区に、商業の中心である右京は木津・山城地区に配置されました。橋を架けたとされる作り道は、この右京の中心を南北に貫く形にもなるのです。

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▲かすむ空の向こうに生駒山がある。西進していた木津川は大きく曲がり北上する。


木津川の土手をくだり、泉橋寺の門前に立ってみました。
かつての泉橋寺の敷地は広大で、作り道に接していました。本堂も今よりも東の位置にあったのではないかと言われています。当時は堤防もなく、木津川の水面を行き交う船の様子も見られたことでしょう。
「実は、この泉橋寺で歴史的な出会いがあったんですよ」
と、中津川さんは言います。その出会いとは......。
「聖武天皇です。聖武天皇と行基がこの泉橋寺で会っているんです」


■天皇の苦悩を救う
聖武天皇は、平城京から何度も遷都したり、取り止めたり、どうにも一所に落ち着かない天皇でした。伊勢に行幸した帰り道の進路を近江にとり、そこから南下して平城京を目指した時に、この木津川の地にも立ち寄り、恭仁京への遷都を決めたのです。
「翌年741年(天平13年)の3月に、聖武天皇が行基と出会ったという記録が『行基年譜』にはありました。『続日本紀』には掲載されていないことから信ぴょう性は疑われていたのですが、平成21年に行われた堺の土塔の整備調査の結果『行基年譜』の信頼性が増したことから、実際に2人は出会ったのは確かなことでしょう」
記録によると、聖武天皇はただの僧侶に過ぎない行基と丸一日も泉橋寺で会っていたそうです。

聖武天皇は悩み多き天皇でした。彼の治世は、大地震に大干ばつ・疫病・飢饉・海底火山噴火と天変地異のオンパレードでした。民心も離れ、地方で大きな反乱もおきます。そんな時に、泉大橋と泉橋寺で「一枝の草一握の土くれ」を持ち寄って工事を進める行基と彼に従う集団の姿を見て、聖武天皇は心を動かされたのでしょう。
「聖武天皇は、巨大な廬舎那仏を作って民の心をひとつにして国を治めようと考えたのです」
行基との会談は聖武天皇にとっては満足のいくものだったのでしょう。行基年譜には、この年の6月に木津川に船を浮かべて、聖武天皇と行基は舟遊びをしたという記述もあります。苦難の続く天皇にとって、年上の聖者・行基は心許し信頼できる相談相手と感じられたのかもしれませんね。

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▲鎌倉時代に出来た日本一のお地蔵さん。水害の多いこの地区を見守ってきた。


泉橋寺には、行基伝説以外にも地域の人たちに愛されているものがあります。
それは門前にある日本最大の石造りのお地蔵さんです。
行基の架けた泉大橋も150年後には流されてしまったことからもわかるように、木津川は度々水害を引き起こしていました。浄土へ導いてくれる地蔵さんへの信仰の中には、被害にあった人々への鎮魂の意味もあってでしょう、1308年・鎌倉時代の終わりごろに高さ4.58mという巨大なお地蔵さんが作られました。
創建当時にあったお堂は、1471年の応仁の乱の際に戦災にあって焼け落ち、お地蔵さんは青空の下にむき出しとなりました。一度、お堂の再建の計画もあったのですが、お地蔵さんが夢枕にたってお堂を作らないよう頼んだという伝説が残っているのだそうです。
「木津川を行き交う人たちの姿を見ていたいからお堂は作らないでくれ、そうお地蔵さんは夢の中で訴えたのだそうですよ」
時代は離れていますが、今も木津川に向かって座り続けているお地蔵さんに、どこか行基の面影を探したくなるエピソードです。

このお地蔵さんの見つめる先、木津川を渡った対岸には、行基の不思議な伝説が縁起というお寺があります。後篇では、この行基縁の橋柱山大智寺を訪ねてみましょう。

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▲今回の旅の三人の案内人。左から西谷さん、中津川さん、渡辺さん。お世話になりました!

(後篇へ)

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