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雑記帖 No.104

国を耕したもの 行基(2)

千年を越えて生きる伝説

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貧しい民衆のために灌漑事業に取り組み、国の法を破ってでも街中での布教活動を続けた僧・行基。事業と同時に建築事務所兼修行道場として建てた院は、記録によれば四十九院余になりますが、行基開基の伝承が残る寺院は北日本から南九州まで770以上を数えます。はたして行基はどこまでその影響を広げていったのでしょうか。
前篇では堺市文化財課・近藤康司さんの取材をもとに、行基の出自に活動内容と背景などをまとめました。後篇では、さらなる行基の活動の広がりを見ていきます。


■瓦に刻まれた証
『続日本紀』にも行基の道場として四十九院があったと記されているのですが、四十九院として名前のあがっている中でも、現在まで残っているお寺は数少ないのだそうです。たとえ建物が残っていなくても遺跡から瓦が発掘されれば、それは重要な手がかりになるのですが、行基と関連する瓦はなかなか発見されないのだそうです。
「おそらく行基の建てた修行道場は瓦も葺いていないような簡素な建物が多かったのだと思われます。また行基を支持する氏族から、古くからあるお寺などを提供された場合もあるようです」
と、近藤さんは推測します。

行基の業績を記録した文献としては『行基年譜』がありましたが、長い間その信頼性は疑いの目で見られていました。その疑いが一変したのが、前篇でも取り上げた平成21年に行われた土塔(堺市中区)の整備において、発掘された沢山の瓦の中から一枚の瓦が発見されたことでした。そこには「神亀四年(727年)2月3日」の日付が刻まれており、『行基年譜』に記された着工の日時とぴたりと一致したのです。これにより、文献の信頼性が一挙に増したのでした。


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▲土塔から発見された「神亀4年」の日付が刻まれた瓦。行基研究が進展させた一枚。(写真提供:堺市文化財課)


こうした文献や考古学的な記録から行基の活動範囲の実態を推測していくと、確実性があるのは大阪・奈良・京都・兵庫の関西圏内に限られてきます。

では、四十九院以外の残り700強の行基開基伝説を持つ寺院は、行基とはまったく無関係なものなのでしょうか。
「実際、後世の創作も多いと思われます。というのは、明治維新後の廃仏毀釈によって、多くの寺院が廃寺の危機に直面しました。その時に行基開基という伝説を持ち出して、由緒ある貴重な寺だから潰さないでくれと主張したのではないかと思われるのです」
もちろん、全てがそうした1000年以上も後の後付とは限りません。
行基が直接乗り出さなくても、弟子や周辺の『知識』と呼ばれる集団が携わった事業や寺院があったかもしれません。行基の晩年にも近い745年(天平17年)には、一年に5か所で事業が行われるなど、それまでに増して精力的な活動が行われています。その現場に行基が付きっきりでいたわけではなく、プロデューサー的に振舞ったのではないかとも想像できます。実際、行基の死後も奈良時代までは知識集団は存続して活動を続けていました。

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▲行基に率いられた知識集団のシンボルとして作られた土塔。手前は復元模型。


近藤さんは、更に幅広い可能性も示唆します。
「また、行基は都に税を納めに来る地方の人のために、街道沿いに布施屋という宿泊施設も作りました。布施屋や修行道場などで、行基の活動に触れた地方出身者が感化され、奈良にはすごい僧がいると、国許で行基の噂を広めたということもあったでしょう」
こうして行基の活動は地域的な広がりを見せたばかりでなく、いつしか国からも認められるようになりはじめました。


■国家事業に関わる
社会基盤を整備し、国を富ませる行基の活動は、抑圧するよりも利用する方が良いという判断がされたのでしょう。722年頃から行基の活動は権力者によって公認されるようになり、731年8月には一定の年齢以上の行基の信者に出家が許されることとなります。

行基たちの活動も、ため池だけでなく、港や橋の整備といった流通インフラの事業にも範囲を広げていきます。難波京が整備された730年頃には摂津国で活動し、740年には恭仁京の建設に直接深くかかわるようになります。民間事業と国家事業の2本柱で行基たちの活動が行われるようになったのです。

この頃の天皇は聖武天皇で、当時の都は奈良の平城京だったのですが、どういうわけか腰が定まらず、あちこちに遷都をしようと試みます。
恭仁京は、平城京からほど近く、真北の位置で現在の木津川市にあたります。木津川市中央には、東西に木津川(当時は泉川)が走り、北岸には山城地区、南岸には木津地区があり、上流には加茂地区があります。左京(東)の加茂には政治の中心として恭仁宮がおかれ、右京(西)の山城は商業の中心地として計画されました。行基は、右京に木津川を渡る泉大橋を架け、そのたもとに寺院を建てました。これが今に残る泉橋寺です。
「泉大橋がどこに架けられたかは諸説あってよくわかりません」
近藤さんが言うように、泉大橋はその後しばらくして流され、その後も付け替えては流されており、ここが確かと言える証拠のある場所はないのです。現在は国道24号線上に架橋されていますが、明治から大正期には今より西にあり丁度右京の中心を貫く『作り道』と呼ばれる道の上にありました。もっとも、この道は、平城京と恭仁京を結び、さらに北上して北陸へ続く北陸街道であり、行基架橋地点としては最有力候補とされているようです。

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▲京都府木津川市にある泉橋寺。街道をゆく人の宿泊施設である布施屋・修行道場として行基によって作られた四十九院のひとつ。


聖武天皇は、泉大橋や泉橋寺が建設されている時期にこの地を訪れており、行基と知識集団の活動を実際に目にしたようです。
この後、大国家事業である奈良の大仏建立に行基は指名されます。大仏建立事業を引き受けるにあたって、行基は日本で最初の僧としての最高位『大僧正』に任じられることとなります。何の位ももたないただの僧侶から、いきなりの大抜擢です。行基本人は、心進まぬことであったようですが、弟子や知識集団の将来も考え引き受けたようです。

そして749年、行基は82才で生涯を閉じます。奈良の大仏こと東大寺廬舎那仏像が完成するのは、その3年後の752年のことでした。彼の亡骸は、晩年の母と2人静かに暮らした生駒に葬られました。

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▲近鉄奈良駅前の行基像。身近な待ち合わせスポットとなっている。


こうして、行基の生涯の業績を辿ると、やはり史上類をみない人物だったといえるのではないでしょうか。
一派を開いた開祖など、行基を上回るようなカリスマ性をもった僧ならいたかもしれません。また行基に憧れ、治水事業に携わった重源のような僧もいました。しかし、その2つを兼ね備え、カリスマ性をもって多数の人を率いて土木と建築で国土を作り変え、1200年後の今の生活にもその残響を響かせているような僧は、行基ただ1人と言えるのではないでしょうか。行基の伝説が明治に多くのお寺が廃寺となるのを救い、多くのまちでは今もまちのアイデンティティになるなど、その伝説は1000年を越えて生きつづけたのです。まるで古代神話に出てくる、国造りの神様のような存在に思えてきます。

地元の堺では、行基と知識集団のシンボルタワーとして築かれた土塔は改修を経て今に蘇り、地元の人たちから愛されるランドマークとなっていますが、いつまでも大切に残しておくべき日本史上に二つとない史跡といえるのではないでしょうか。


参考文献:
『行基』 井上薫/吉川弘文館
『天平時代の僧 行基』 千田稔/中公新書
『行基』 吉田靖雄/ミネルヴァ書房
『行基と知識集団の考古学』 近藤康司/清文堂

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