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雑記帖 No.103

国を耕したもの 行基(1)

山林から人々の中へ

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土の匂いが、その人からはしたのではないでしょうか。
日本史には必ず登場する僧・行基は、奈良の大仏造立に協力し、また貧しい人と共に多くのため池や橋を作った人物です。宗教家としての枠には収まらない、日本の僧侶としては他に類を見ない人物といえるでしょう。
つーる・ど・堺では、行基伝説を手がかりに、北摂の能勢妙見山、京都府南端の木津川市を訪問しました。そこでは、まちの歴史として行基との縁が大切に語り継がれていました。こうした行基伝説の残る土地は、近畿圏のみならず東北から九州まで日本全土に広がります。もし全てが真実だとしたら、行基は超人というしかないでしょう。
ひるがえって、行基の出身地である堺では、彼の出自も業績も、ぼんやりとしか知られていないような気がします。一体、行基とはどんな人物だったのでしょうか。
行基に詳しい堺市の文化財課の近藤康司さんのお話を手がかりに、行基の実像に迫ります。


■東アジア激動の時代に生まれる
行基が生まれたのは西暦668年。時代区分としては飛鳥時代で、まだ和泉国が河内国から分離されていませんでした。海外に目を移すと、東アジアは激動の時代です。中国大陸では618年に唐が成立し、勢力を周囲に拡大せんとしています。朝鮮半島は百済・新羅・高句麗の三国時代が続いていましたが、660年に新羅によって百済が滅亡。日本は百済遺民と共に海を渡って唐・新羅連合軍に戦いを挑みますが、壊滅的な大敗北を喫します。新羅が高句麗を滅ぼし、半島を統一したのが、まさに行基の生まれた668年のことでした。

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▲行基が生家に建てた家原寺。家原寺という地域の地名の語源ともなっています。


行基が生まれたのは、現在の堺市西区の家原寺で、母方の氏族蜂田氏の所領でした。蜂田氏は中国系の一族で、八田という地名が今に残ります。この母方の生家を行基がお寺にしたことから、家原寺と呼ばれるようになるのですが、ここにおそらく通い婚をしていた父は高石を所領としていた高志氏で、こちらは百済系の一族でした。つまり今風に言えば行基は、中韓ダブルで生まれ、育ちは日本というなかなかインターナショナルな文化背景を持つ人物だったのです。

記録によると行基は15才の時に出家します。飛鳥寺で学ぶだけでなく、山林修行にも励みました。
この時、行基が学んだ瑜伽唯識論(ゆがゆいしきろん)で、瑜伽とはヨガのことです。行基と同じお寺で学んだ先輩(あるいは師匠)の道昭は、海を渡って唐へ行き、西遊記で有名なあの玄奘三蔵がインドから持ち帰った唯識学の経典を日本に伝えています。ちょっと強引ですが、行基は三蔵法師の孫弟子というと、世界とのダイナミックなつながりを感じることが出来るのではないでしょうか。

修行に励む行基でしたが、37才の時に思い悩み、山林を出て郷里和泉に帰り静養生活に入ります。自分のために1人修行するという生き方に疑問を感じたのです。自分1人山林に籠るのではなく、集落に出て人の間で庶民とともに悟りの道を目指すべきではないか? そんな苦悩だったようです。
後の行基の活躍のスタート地点はここからだとすると、当時の寿命を考えると随分な遅咲きです。そして何より、彼の進もうとする道は、国の法を犯したとみなされる険しい道でもありました。


■庶民の中で活動
故郷に帰った行基は、年老いた母の看病をしながら蜂田郷や近隣の村人のために加持祈祷をしたり、農業指導をしたりしていたようです。母の晩年は生駒に移り、母の死後も3年間喪に服します。行基の業績が現れるのは、716年に恩光寺(平群郡)を起工したという記録です。
しかし当時の仏教界は、国の統制のもとにありました。仏教僧は全員国家公務員で、お寺を出て勝手に布教活動することは許されなかったのです。行基の活動は、これに真っ向から逆らうものでした。

布教活動などによって行基のもとに集まった人々の中には過激な行動に出るものもいたらしく。『続日本紀』の717年の記事では、行基とその一党が法を犯し人々を惑わしていると強く非難しています。国からの非難にも関わらず、行基たちは修行道場や、地方から税を納めに来る旅人のための宿泊施設(布施屋)を作ったりしていましたが、722年に禁令が出されたことによって、都を離れ再び帰郷することになります。

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▲行基の活動の根底には、仏・僧・父母・貧者に施せば福徳を得るという「福田思想」があります。現在の家原寺には、ネパールの学校建設の援助のお礼にとマニ車が贈られていました。行基の福田思想が国境を越えて届いているのでしょう。


■社会事業へまい進
郷里の和泉国へ帰ってきた行基は、泉北の檜尾池を手はじめにため池を各地に作ります。中区深井の菰池、西区草部の鶴田池なども行基によって築かれたため池です。行基の作ったため池は、その頃に河内国から分離した和泉国と摂津国に集中しています。これは何故でしょうか? 
古代史が専門で、行基に関する著書もある近藤さんに尋ねてみました。

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▲著書「行基と知識集団の考古学」を上梓した近藤康司さん。


「河内国は豊かな大国でしたが、分離したばかりの和泉国は一番下の下国でした。大和国や河内国に比べて、和泉国の社会的基盤がしっかりしておらず、また平野のある両国に対して、和泉国は海からすぐに山で平野部が狭い地形でした。農地を開拓しようとすると、どうしても丘陵地帯にため池を作らざるを得ませんでした」
貧しくインフラも整っていない地域の為に、行基は活動したのでした。

檜尾池造成の際には檜尾池院も建築され、土地を開発し収益をあげる土木工事と同時に、建築事務所兼労働者のための宿泊施設であり修行道場でもある院を作るスタイルが確立します。行基の活動が豊かさに直結したこともあり、この時から行基のもとに集まる人々の数は急増しました。土地の人には豊かさを与え、行基たちには布教の機会と場を与える一石二鳥のシステムだったのです。
こうして行基の活動は、布教活動から踏み込んで民衆のための社会事業という性格を持ち、勢力も侮りがたいものとなります。

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▲泉北高速鉄道「なかもず」駅と「深井」駅の間にある菰池は、現在は鉄道と道路で分断され二つの池になっている。


菰池からほど近くに行基と彼の周囲の集団の有りようが伺える史跡があります。
それは土塔(どとう)と呼ばれる高さ8.6m、一辺53.1m四方の土と瓦で出来たピラミッドそっくりの建造物です。この塔は一体なんのために作られたのでしょうか?
類似のものとしては、奈良の東大寺に頭塔と呼ばれるものがありますが、頭塔の建築は土塔から33年後で、構造も盛った土の周囲を石で覆い石仏が配置されており、明らかに宗教施設ですが、行基の土塔には仏像の姿はありません。

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▲もっと相似したものとしては、中国河北省の邯鄲で発見されています。ひょっとしたら行基の弟子の中に中国へ渡ったものがいて、土塔の着想を得たのかもしれません。土塔は、今でも近隣の住人からは「どうと」と呼ばれて大切にされています。南海バスの停留所でも「どとう」ではなく「どうと」と車内アナウンスされています。


一体土塔は何のために作られたのか長らく謎でしたが、ついにその謎に光が照らされました。
「平成21年に土塔の整備が完成したのですが、土塔は十三重の塔で、各層に瓦が葺かれていたことがわかりました。その中には文字を記した瓦が1300点も出土し、大半は人名でした。この名は行基と共に活動し、仏と縁を結んだ『知識』と呼ばれる人々が刻んだものだったようです」
人名の氏族名などから出身地を集計すると、和泉北部や南河内など近隣の氏族が土塔づくりに参加していることがわかります。
こうした事から考えられるのは何でしょうか。
「土塔の近くには、行基と縁が深く、土木技術に優れた土師氏が居住していました。行基は、高度な建築技術が必要な木造の建築物ではなく、土師氏の技術を使って、知識の人々が土や瓦を運ぶ作業に参加するという、いわば誰でも建造に参加できる土塔を知識集団のシンボルとして築いたのではないかと考えられるのです」
権力者のモニュメントでもなく、自分たちの手によるシンボルとして土塔は作られた。そんな建造物が古代にあったことは、驚くしかないでしょう。

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▲土塔から見つかった人名を刻んだ瓦。すぐ近くに勢力があり、今も「土師町」の地名に残る土師氏の名前が見える。


国に弾圧されながらも、民衆のために和泉や摂津の開発に力を尽くした行基の周囲には、このように多くの人たちが集うようになっていました。その熱気は、いつしか行基たちに対する国の態度にも影響を与えるようになります。



参考文献:
『行基』 井上薫/吉川弘文館
『天平時代の僧 行基』 千田稔/中公新書
『行基』 吉田靖雄/ミネルヴァ書房
『行基と知識集団の考古学』 近藤康司/清文堂

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