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雑記帖 No.101

天下一の鉄砲鍛冶屋敷(2) 西洋最新銃も研究

中篇 幕末から明治、昭和へ

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江戸時代後期鉄砲需要が減る中、堺の鉄砲鍛冶・井上家は、10代目関右衛門寿次(ひさつぐ)の時に、お抱えの伊予大洲藩をはじめ北は福島県から南は鹿児島県まで60藩に出入りする日本一の鉄砲鍛冶となります。しかし、時代は幕末。動乱の時になるも、ライバルである西洋銃が日本に押し寄せてきます。幕末、そして明治維新を井上家はいかにして乗り越え、今に広大な鉄砲鍛冶屋敷を遺したのでしょうか。 前篇に引き続き、現当主井上修一さんと、弟の俊二さん。そして観光ボランティアガイドも務める友人土井健一さんからお話を伺いました。
 
 
■幕末を生き延びる 
井上家の鉄砲屋敷には、一丁の西洋銃が保管されています。幕末に輸入されたフランス生まれのゲーベル銃です。 
幕末に輸入されたゲーベル銃をいち早く入手した井上関右衛門寿次は、ゲーベル銃を分解し徹底的に研究します。しかし、井上関右衛門寿次作のゲーベル銃はここにはありません。あるのは国友鍛冶作のフランス製銃の模倣ゲーベル銃です。井上関右衛門寿次はゲーベル銃の性能は火縄銃に劣る事で生産は断念したようです。 
 
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▲輸入されたゲーベル銃を手にする井上俊二さん。


「実はゲーベル銃は発火装置を除けば、火縄銃とほとんど変わらないので複製するのは技術的に難しくなかったようです。しかも、命中精度では火縄銃の方が上でした。火縄が落ちれば発射できる火縄銃に対して、二段式で発火し発射するゲーベル銃は衝撃が二回起きるので、どうしても銃身がぶれるんですね」 
雨の日など天候に左右されないこと以外は、ゲーベル銃に優位性はなかったのではないかと、俊二さんは言います。 
 
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▲文化財特別公開では、オリジナルと国友鉄砲鍛冶作の模倣品が並べて展示されていました。


西洋式銃との差が決定的になるのは、銃身の中に旋状の溝を刻んで弾丸に回転を与えるライフリング技術が開発され、弾丸にも改良が加えられ射程距離が飛躍的に上昇してからでした。このライフリング技術には、さすがの関右衛門も歯が立たなかったようです。 
それでも、明治25年に開催された勧業博覧会には、井上家は当時の陸軍大臣大山巌あてに国産銃を献上しています。 
 
そうした努力にも関わらず、明治10年には14軒あった堺の鉄砲鍛冶も明治15年には鉄砲火薬販売処と名を変えて数も4件まで減っていきます。 
それは技術的な問題もありますが、日本の軍隊が制度としても近代化し、まちの鉄砲鍛冶から産業化への道を歩んだからでした。そんな中で、陸軍大臣に銃を献上したのは、200年続いた井上家の、あるいは堺鉄砲鍛冶の最後の意地だったかもしれません。 
 
 
■それでも生き延びた鍛冶屋たち 
井上家も正確にはわかりませんが、明治20年代までは鉄砲鍛冶をしていたようです。 
「軍用銃だけでなく、猟銃や鳥の脅し銃や火薬なども手がけていました。井上家が鉄砲をやめても続いたのは、金物の細工物は何でも扱っていたからです。特に火箸はよく出たようです」 

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▲柱などに使った釘を見えなくするための釘隠し。鶴の飾りになっています。

 
堺と同じく鉄砲の生産地として知られる滋賀県の国友村の場合は、長く続いた鉄砲鍛冶の家というのがないのだそうです。 
「理由はいくつかあるのですが、藩のお抱えになると国友から出て行ってしまったり、逆に大名と疎遠になったり景気が悪くなると鉄砲鍛冶をやめて百姓に戻ってしまうことが多かったようです」 
国友村でもある程度は分業制があったようですが、堺の鉄砲鍛冶は高度に分業制が進んでいました。銃身部分を作るいわゆる鉄砲鍛冶だけでなく、機械仕掛けを作るからくり師、木製の銃床を作る台木師、銃の飾りを作る飾り職人などがいました。 
井上家には、飾り職人の仕事が残っています。 
「そこのふすまの引き戸もそうですし、釘隠や飾り釘なんかも残っていますよ」 
柱に打たれた釘を巧妙に隠す釘隠は、現代建築では見ることが出来なくなったものの一つでしょう。 堺は人口の多い都会ということもあって、こうした贅沢品や生活用品の需要も大きく、分業し専門化した職人たちが廃業せずに長く続けることが出来たのです。特に大洲藩を始め多くの大名と付き合いのあった井上家は富を蓄積し、明治維新を超えても大きな屋敷を維持することができたのでしょう。 
 

井上家では、寿次さんの次の代、修一俊二兄弟には祖父にあたる井上正五郎さんの代まで金物を扱っていました。正五郎さんも関右衛門の名を継ぎ、七道あたりで火薬も扱っていたそうです。 
二人の父・嘉美さんも関右衛門の名は継ぎましたが、家業の鍛冶は廃業して高校教師となりました。 
「でも血筋なのか、冶金科で教えていたんですよ」 
血筋といえば、ご兄弟も薬屋さんを営んでいました。 
「兄貴が酒を飲んだ時のお得意のネタがあって、『先祖が人を傷つける仕事をしていたんで、わしらは罪滅ぼしに人を治す方の仕事をしているんや』というんです。このネタは私が言ってはいけないネタなのですが」 
いずれにせよ、日本では他にない鉄砲鍛冶屋敷を戦後も、平成になっても維持することができた井上家ですが、ここに来て大きな変化が起きようとしています。 
 
後篇へ) 
 

鉄砲鍛冶屋敷
堺市堺区北旅籠町西1丁3-22
※内部非公開につき、外観からの見学をお願いします。

 

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