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雑記帖 No.100

天下一の鉄砲鍛冶屋敷(1) 武士にして鉄砲鍛冶

前篇 戦国から江戸時代

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「種子島」といえば、16世紀に日本に伝わり、戦国時代を席巻した火縄銃のこと。 
歴史ファンや歴史ゲームファンなら、堺が火縄銃の一大生産地であったことをご存じでしょう。堺区北旅籠町に「鉄砲鍛冶屋敷」が現存しているのですが、住居として使用されていることもあり、一般に公開されるのは文化財特別公開の折などに限られています。 
鉄砲鍛冶で知られる堺、同じく鉄砲の生産地として名高い滋賀県の国友村を含めても、これほど完全な鉄砲鍛冶屋敷が現存しているのはこの屋敷だけです。鉄砲鍛冶屋敷の現当主である井上修一さんと、弟の井上俊二さんに長い歴史や現状を伺うと、何やら火縄銃の歴史がひっくり返るようなものが最近発見されたのだとか。一体、その発見とは何んなのでしょうか? 
 
 
■井上家のルーツに迫る 
何故、今や日本唯一の鉄砲鍛冶屋敷が現存するのか、そして発見とは何か。まずは井上家のルーツをたどりましょう。お話は、井上俊二さんと、観光ボランティアガイドの土井健一さんに伺いました。 
「古文書によると、井上家は安土桃山時代に甲斐24万石を治めた加藤家に、その頃から仕えていたようです。加藤家が、伯耆米子藩6万石を経て、江戸になって伊予大洲藩6万石に落ち着くと、2代目の加藤泰興(やすおき)公がやり手で非常に人材登用をやったんです。大坂の陣の浪人たちなど、一芸に秀でたものを召し抱えました。その時に(祖先は)、お殿様から関右衛門という名を賜りました」 

なぜ、関右衛門と名乗ったかという記録も残っていました。 
「せっかちだったので関右衛門と、これも古文書に書いてありました」 
井上関右衛門の待遇は、5人扶持で羽織袴に大小の刀という武士の扱いでした。 
「5人扶持というお給料は、藩お抱えの鉄砲鍛冶としては相場でしたが、武士扱いというのは他では聞いたことがないような待遇です」 
それだけ初代井上関右衛門には才覚があったということなのでしょう。 

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▲かつて大洲藩の殿さまやお偉方を迎えたというお座敷で。向かって左から土井健一さん、井上俊二さん、当主の井上修一さん。土井さんと修一さんは、山歩きの会で友人になった仲だとか。
 

甲斐時代から仕え、伊予大洲藩のお抱え鉄砲鍛冶となった井上関右衛門がいつ堺にやってきたのか正確な所はわかりません。 
「大坂夏の陣で堺が焼け、その後元和の町割りが整備されましたが、井上家が堺に居を構えたのは1600年代の中頃ではないかと思われます」 
江戸時代初期の井上家は大きな鍛冶ではありませんでした。 
「当時の堺は五鍛冶と呼ばれる榎並さんや芝辻さんなど大きな鉄砲鍛冶がいて、その下に沢山の平鍛冶がいました。その頃の井上家は平鍛冶の真ん中ぐらいの規模だったようです」 
 
島原の乱(寛永14年~15年/1637年~1638年)終結後は戦乱も無く、江戸期に何度も出された武家諸法度によって大名の兵装が制限されたこともあって、時代と共に鉄砲の需要は減っていきます。元禄9年(1696年)の記録によると、堺の鉄砲鍛冶は54軒で100人前後が従事していましたが、次第に数を減らしていきます。 
不景気もあって、5人扶持だった井上家の待遇も18世紀後半には3人扶持にまで減らされたりしています。しかし、井上家は消滅しませんでした。 
 
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▲江戸時代から続く鉄砲屋敷。井上家の発展に伴い敷地を広げていったそうです。江戸中期になると鉄砲の新規発注は減少してきましたが、破損しやすい火縄の受け皿などの修繕の受注が多くなったそうです。
 
 
 
■5才の当主が日本一の鉄砲鍛冶に 
江戸時代後期になって、井上家は一気に飛躍します。 
「増減はありましたが江戸時代の308藩のうち、240藩に堺の鉄砲鍛冶が出入りしていました。井上家は大洲藩お抱えでしたが、他藩からも仕事を受けており、江戸時代中期には20藩程度とのお付き合いだったのが、後期の天保13年(1842年)には60藩もの大名と取引するようになっていました。これは堺でもナンバー1の数です」 
堺で一番ということは、もちろん全国でも一番です。 

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▲鉄砲屋敷には藩に出入りするための御用札(エフ)が残されていました。これは土井さんらの手による複製品。また、井上家の仏壇には大洲藩の歴代藩主の位牌までお祀りされており、それが許されたということで関係の深さが伺えます。

 
鉄砲鍛冶の多くが廃業していく中、どうして井上家が日本一の鉄砲鍛冶になったのか。 
いくつか理由はありますが、最大の理由は10代目井上関右衛門 寿次(ひさつぐ)の存在にあるようです。 
 
父宗次の早世によって、寿次が関右衛門の名を継いだのは2才の時、家督を相続したのは5才の時でした。寿次は、若くして苦労したからか、なかなかの人物だったようです。 
「井上家は大洲藩のお抱えでしたが、だからといって仕事がドカドカきたわけではありません。大洲藩の藩主とやりとりした手紙が一杯でてきたのですが、藩主の推薦でお殿様同士の口コミもあって井上関右衛門の名は他藩にも広まっていったようです」 
井上家の鉄砲屋敷には、普段使いの玄関とは別に、賓客のための玄関があり、実際に何度か反の重臣が屋敷に足を運んでいたようです。もちろん、藩主と親しいだけで口コミ効果があるわけはありません。 
「各藩にもお抱えの鉄砲鍛冶がいたのですが、そういう鉄砲鍛冶と比べて関右衛門の鉄砲は性能が良く高く評価されたようです。『評判がいい関右衛門を紹介してくれないか?』と大洲藩のお殿様に、他藩のお殿様が頼んだこともあったんじゃないでしょうか」 
抜きんでた性能の「関右衛門」は鉄砲のブランドとなって、シェアを日本中に拡大していったのです。 

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▲鉄砲屋敷に遺されていた火縄銃の銃身。堺の鉄砲の銃身は細身で銃口の部分がぼてっとしているのが特徴です。


しかし、時代は幕末へと突入します。 
火縄銃でナンバー1となった井上関右衛門でしたが、鎖国が解禁され西洋式の鉄砲が日本に押し寄せます。 
はたして、井上関右衛門は新時代に対応できたのでしょうか? 
 


鉄砲鍛冶屋敷
堺市堺区北旅籠町西1丁3-22
※内部非公開につき、外観からの見学をお願いします。


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