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雑記帖 No.083

破格の人慧海と、慧海を生んだまち 1

立志の人、終生の友 ~「慧海と堺」展より~ 

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青年はただ1人、海を渡り、世界の屋根ヒマラヤを乗り越え、閉ざされた国チベットへ踏み入りました。仏教の正しい教えを知りたいという情熱だけを胸に秘め。 
彼の名は、河口慧海。堺出身で、江戸が明治になる2年前に生まれ、第二次世界大戦の終戦の年にこの世を去りました。堺の偉人といえば、千利休や与謝野晶子ばかり取り上げられがちですが、河口慧海はもっと注目を集めてしかるべき人物の1人です。 
 
そんな河口慧海をテーマにした展覧会「慧海と堺」が、2016年10月26日から12月4日の会期で堺市博物館のみならず、慧海の生まれ育ったまちを中心に堺区各地で広く展開されています。よくある展覧会とは一味も二味も違うこの展覧会、そして河口慧海の自身の魅力に迫りましょう。 
 
 
■まち全てが展覧会場 

展覧会場の一つである町家歴史館清学院は、当時は慧海も通った寺子屋でした。清学院の縁側で、今回の展覧会を企画した堺市文化財課の中村晶子さんにお話を伺いました。 
「会場三か所のアクセスは決して良くないこともあって、なぜ堺市博物館一か所でやらないのかと聞かれることもあるのですが、慧海さんの生誕150周年に、生まれたまちに来て頂いて実感しながら見てもらうのがいいのではないかと、こういう形にしたのです」 
慧海の生まれた北旅籠町など通称「ななまち」界隈は戦災を免れ、昔の風情が残るエリアです。 

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▲メイン会場のひとつ清学院もチベット風に!?。

 
「清学院の展示テーマは『慧海の生まれたまち』。少年時代からチベットへ行くまでの時期、少年期・青年期の心の動きに焦点を当てています。慧海は堺の人から様々な支援を受けていたのですが、町家歴史館山口家住宅では、『慧海と堺』をテーマに慧海を支援した人、交流した人を取り上げています。慧海さんはチベットに行ったことばかり有名ですが、行って何をしたのか、帰ってきてから何をしたのか、堺市博物館では『慧海とその思想』として展示しています。帰国後、慧海さんは、チベット語と日本語の辞書をつくったり、既存の仏教教団に捉われず、出家をしていない仏教信者向けに仏の教えを広める教育活動を行っているんです」 

それぞれのテーマに相応しい会場で、慧海の志・縁・思想に触れていく構成になっています。そして、それだけでなく、観光イベントとしても面白い仕掛けがありました。 
「缶バッチラリーで各会場ごとに違う缶バッチがもらえるんです。缶バッチはチベットに行く前、帰ってきてから、そして60代の慧海さんの写真が使われていて貴重ですよ。さらに、まちのお店などにも協力いただいて、慧海と同時代を生きた『堺人』のパネル展示や、スペシャルカフェメニューを用意してもらったりオリジナルグッズの販売もしていただいているんです」 
博物館や観光施設だけでなく、まちの人や事業所を巻き込んで、慧海をまち全体で体感できる。「慧海と堺」展は、まちそのものが大きな会場とでもいうべき展覧会なのです。 

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▲会期期間中に紙cafeでは、慧海さんのオリジナルグッズや、チベット密教にちなんだアイテムが販売されています。
 

この展覧会を見ながら慧海の人となりや足跡をたどると、慧海は堺でなければ生まれなかった人物、堺の人たちの助けがなければ志をかなえることが出来なかったのではないかと思えます。 
 
 
■慧海と友 

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▲チベットから帰ってきた慧海(左)と、慧海が大切にしていた親友・肥下徳十郎の肖像写真(右)。


慧海は1866年に堺山伏町(現在の北旅籠町西3丁)に樽屋の長男として生まれ、山伏が先生を務める清学院の寺子屋で学びます。中村さんに、清学院の展示を案内してもらいました。 
「これが寺子屋の教科書ですが、普通のいろはにではなくて、堺の町名が教科書になっているんです。南旅籠町の南の右側に訓読みで「みなみ」、左側に音読みで「なん」と書かれています。これは上の学校に行く子もいれば、丁稚奉公に行く子も多かったから、生活の中で読み書きができるようにと、実用的な意味もあったのでしょう」 
職人のまちらしい配慮といえるでしょう。 
 
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▲清学院で使われた読み書きの教科書。南から町名が並びます。
 
 
慧海も上の学校(今の錦西小学校)は長く続けられず、12才で退学して家業を手伝うようになりますが、漢学校には通わせてもらい、そこで生涯の親友・肥下徳十郎(ひげとくじゅうろう)と出会います。 
 
肥下徳十郎は、瓜破の生まれで15才の時に肥下家の養子となりました。肥下家は河口家から歩いて2分ほどのご近所さんで、河内屋という屋号で紙の商いをしていた裕福な家だったようです。 
後に、青年となった慧海は、大阪の妙徳寺で仏教を学ぶために一切経・6767巻を読み始めるのですが、長男なのだから家業を継げと母親が弟の手を引き連れ戻しに来ます。その時、困り果てた慧海が頼ったのが肥下徳十郎です。徳十郎宛てに手紙を書き、「1日6巻ずつ読めばあと3年で読了するので、3年間待つよう説得してほしい」と父母へのとりなしを頼んでいます。おそらく、ご近所の大店の若旦那として、河口家にも覚えもめでたい徳十郎ならなんとかしてくれると頼ったのでしょう。 

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▲チベットから帰ってきた慧海(左)と、慧海が大切にしていた親友・肥下徳十郎の肖像写真(右)。


徳十郎も50才の若さで亡くなるまで、金銭的にも親友の慧海を支援し、家族の面倒まで見たそうです。
慧海の姪の家から発見されたアルバムには一枚の写真が大切に挟まれていました。それは徳十郎の肖像写真で、慧海の自筆で「35年間の親友」と書かれており、慧海が亡くなるまで傍らに置かれていました。 
 
徳十郎の助けもあって、慧海は情熱に突き動かされまい進します。後篇では、そんな慧海を支えた堺のまちと、慧海研究の新発見について紹介します。
→後篇


「慧海と堺」展
会期:2016年10月26日~12月4日
メイン会場:町家歴史館清学院・山口家、堺市博物館
詳しくは、

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