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雑記帖 No.081

堺能楽会館の軌跡2 「市民」が親しめる伝統

「堺能楽会館」

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日本で唯一個人が所有する能舞台である堺能楽会館。館主である大澤徳平さんは、江戸時代から続く酒造業の大澤徳平商店の9代目になります。明治に入って店を発展させた6代目が日本最初の世界一周旅行に参加したり、8代目の鯛六さんは10万点の郷土玩具を蒐集するなど、「羽振りが良く、芸事に達者で、博識」という「旦那」たちが受け継いできた家でしたが、戦後苦難が訪れます。
→前篇


■美代さんの奮闘
明治から昭和にかけて堺の主要産業だった酒造業ですが、数多くあった酒造業者も戦時中に国の指導もあって統合されてしまいます。そして堺大空襲で堺は焼野原となり、堺の酒造業は致命的な打撃を受けました。大澤家は前年に8代目当主の鯛六さんを病で失い、戦火で家も蔵も焼失し、幼い徳平さんの母・美代さんが家を背負うことになります。

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▲楽焼の流れから生まれた湊焼。歴史の中で何度も途絶えたけれど、その都度継承しようとする人が登場した。


この時、一家を救ったのは趣味人である鯛六さんの残したものでした。
「湊焼きの窯が深日にありました。母は南海本線の電車で50分もかけて深日まで通い陶工と一緒に働きました」
明治時代に途絶えていた湊焼を鯛六さんが昭和になって窯を築き復活させていました。この復活させた湊焼が新たな家業となったのです。
この窯では、塩壺、片口、三宝、土鍋などをが焼かれました。美代さんには商才があったようで、塩壺に印入りの文字を入れてお土産用として採用されたことなどが数多くあり新しい販売網を広げていきました。
しかし、この深日の窯も昭和36年の第二室戸台風で大きな被害を受けて廃業せざるをえなくなります。

大澤家に次の転機が訪れたのは昭和42年(1967年)でした。
当時の堺市長河盛安之助氏の勧めもあり、先祖から受け継いだ土地に貸しビルを建てることになりました。この時、ビルの設計に貸しビルの中庭に普通ありえない施設が盛り込まれることになります。
美代さんもまた、夫の影響を受けてなかなかの趣味人でした。昭和の紳士録「趣味大観」の鯛六さんの一文に添えるようにして、「家庭には婦芸たる茶道・生花・謡曲(観世流)を初め、夫君の感化による趣味深き、美代子夫人」と紹介されています。

大澤徳平さん曰く「堺の商家では茶道と謡、女性なら花をするのが習い」だったのですが、堺では不便なこともありました。
「堺ではお正月に親族が集まる時は、お謡から始まるものでした。能が好きな母も謡曲をしていましたし、堺ではお謡を習う人は多かったけれど、能まではいかなかった。それは堺には能舞台が無くて、舞の練習をするところがなかったからです」
だったら、堺に能舞台を作ってしまえばどうかと、美代さんは考えたのです。
「丁度その頃、宮大工の浜田豊太郎さんという方と知り合いました。この人は、能を舞うことが唯一の趣味という人で、この人がいなかったらとても能舞台を作るなんて出来ませんでした」

そんな経緯もあって、町の風景に溶け込んだコンクリート造りの貸しビルの中に、日本の伝統的な建築物が内蔵されている誰もが驚く施設、堺能楽会館が完成します。昭和44年(1969年)2月1日のことでした。
3日間行われたオープニングでこの時66才の美代さんは宣言します。
「私どもは家業の酒で皆様に酔っていただきましたが、これからは能の幽玄の世界で酔っていただきますよ」

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▲総檜造りの能舞台が出来上がりました。

晩年も美代さんは精力的でした。趣味は花作りで、大澤さんもその手伝いをさせられたとか。
「母から水のあがった池の底土をとってきてくれと頼まれたりもしました。菊作りでは菊展で入選するほどでしたが、菊は大きくなると鉢を変えないといけないので、年をとって難しくなってきた。それで蘭やカトレアを始めると、この年令で本屋で何冊も本を買って勉強するような人でした」
夫・鯛六さんに勝るとも劣らない「旦那」ぶりを見せた美代さんは、平成4年(1992年)に89才で天寿を全うされます。葬儀告別式は、堺能楽会館の能舞台で行われました。


■文化を継承して
20年ほど前から堺能楽会館では、能や狂言にこだわらない演目が公演されるようになりました。
きっかけは、堺のクラリネット奏者・故稲本耕一さんが能舞台の音の響きの良さに注目したことからでした。能舞台には、床板の下には大きな甕が埋め込まれているなど、音を響かせるための工夫が施されており、演奏者を魅了してやまない施設でもあるのです。

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▲改名して徳平の名を継いだ、9代目大澤徳平さん。この能舞台で、多くの近隣の子どもたちが能・狂言に触れることが出来ました。


「母が生きているうちは、そうしたお申し出はお断りさせていただいていました」
稲本さん親子のクラリネットコンサートが開催されたことを契機に、「市民なんでも講座」と称した枠に収まらない大澤さんの活動が始まります。近隣の小中学校の社会見学で「狂言の時間」として伝統文化を体験してもらったり、演劇を学ぶ大阪芸大・羽衣国際大学の学生に演劇・狂言の発表会をしてもらったり。音楽では、ポルトガルの港町で生まれたファドのコンサートも開催しました。
「ファドは暗い酒場での音楽ですから、歌手の方から会場を暗くしてくれと注文されました」
大澤さんは、天窓に暗幕を張り紐をつけてフロアから開閉の操作が出来るような仕掛けを作りました。それだけでなく照明にも一工夫。下から照らす照明にカラーフィルターをつけることで、赤い光や緑の光が舞台をライトアップ出来るようにしました。それは異国の港町のエキゾチックな雰囲気を醸し出しているようです。

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▲ファドのコンサートのために自在にライトアップできるように。この工夫は実はすべて大澤さんのお手製です。意外にも、DIYが得意な館主さんなのです。


「これも母がいた頃には許してもらえなかったでしょうね」
大澤さんの「市民なんでも講座」は、毎月一回定期的に開催されるようになり、その回数は100回を越えました。
また、大澤さんの活動は堺能楽会館に収まりまらず、1999年にはスペインのマジョルカ島で開催されたポレンザ国際音楽祭にも参加しました。島の修道院に能舞台を作り能の公演を開催したのです。
「大学の先生から頼まれて、若い子たちを14人も連れて行きました」
それはこれからの伝統芸能を担う若者たちに経験を積ませたいという思いもあったからでした。
「母が能舞台を作ったのは、日本古来の能狂言を次の時代に伝える思いがあったからです」
美代さんが断っていた能以外への門戸開放も、能が日常から遠ざかった今の時代の若者たちに伝統文化を伝えていくため能舞台というものに親しんでもらうのに必要な変化だったかもしれません。根底の部分では美代さんと大澤さんの思いは一致しているように思えます。

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▲スペインのマジョルカ島の音楽祭に参加した記録のパネル。


休むことなく講座を企画し、海外公演にも挑んだ大澤さんですが、激務のためか一時は大きな病にも見舞われました。
「3年前に脳梗塞で倒れたんです。でも運が良かったんです。担ぎ込まれた緊急病院の当直の先生が、たまたま脳外科の先生だったんです。処置が良かったおかげで、2日目からリハビリを始めることが出来た」
処置の早さが明暗をわける脳梗塞で、大澤さんは稀な幸運でした。
「これも改名して運勢が変わったからじゃないかと思っています。運が強くなって、不思議と人様のお役に立てるようなことが出来ています。その分、お金には縁が無くなりましたが」
今では病も癒えつつあり、やる気は十分整ってきているといいます。
「能舞台はあくまでも神様のもとでやること、芸を神様に捧げるものになっていることという条件はありますが、若い人たちに堺能楽会館を活用して欲しいですね」

これだけのことをしてきた大澤さんですから、民間から文化を支援する堺の「旦那」と呼ばれる資格は十分ありそうですが、大澤さんは首を振ります。
「私なんかとてもとても旦那ではありません。謡も何もできませんし。堺に旦那がいたのは、戦前まで。いや、私が知っている旦那といえる最後のお一人は、10年前に亡くなった方でした。羽振りが良くて、趣味が深くて、博学でなんでも知っている方でした。絵を描いてはイギリスチャーチル会にも入り、謡も端唄も小唄もなんでもやってはった」
しかし、自分は旦那ではないという大澤さんですが、文化を愛し若者たちを育てようという気持ちは、やはり「旦那」の精神を受け継いだものと言えるでしょう。復活した大澤さんの、これからの活動に期待し、お元気でいていただきたいと願わずにはいられません。


堺能楽会館
住所 大阪府堺市大浜北町3-4-7-100
最寄り駅 南海本線:堺駅
電話 0722-35-0305





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