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雑記帖 No.076

戦時下のハーモニー 3

和音感教育の思いを受け継いで

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美しいハーモニーを奏でるヒトラーユーゲントの少年たちの姿に感動し、子どもたちに絶対音感と和音を教えたいと、佐藤吉五郎先生は堺で「和音感教育」をはじめました。70年以上前の戦局が厳しさを増す中、2万人の子供たちが受けたという「和音感教育」ですが、「潜水艦のスクリュー音を聞き分けるのに役立つ」と軍事訓練に取り入れられるようになります。一世を風靡した佐藤先生の「和音感教育」ですが、戦後は姿を消し佐藤先生の業績も忘れ去られてしまいます。


■忘れられた音楽教育家

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▲音楽家、音楽教育者となって佐藤吉五郎先生の思いを受け継いだ杉江正美さん。


「軍事に走ったことは大きな間違いで、悲劇だったと思います」
和音感教育を受けた教え子の一人で、後に音楽家になった杉江正美さんは、そう振り返ります。
「先日学会で、『佐藤吉五郎先生の名前を知っていますか?』と尋ねた所、知っている先生は2人だけ、(戦後生まれの)50~60代の先生はご存じなかった」
戦後も佐藤先生は音楽教育には関わりますが、それは表に出ませんでした。
同じく教え子だった当時の軍国少年・谷保さんのように「国防に協力するのは当たり前で、おかしいとは思わなかった」という風潮は戦前の音楽界にも共通していました。『和音感教育』の研究をされている和歌山大学の菅道子先生によると、
「戦前・戦中の軍国主義に協力的だった音楽教育家も多くいましたし、その中には戦後・戦前の行動には口を拭って平然と平和を讃える音楽を作る者もいました」
しかし、佐藤先生はその道を歩まず、沈黙を守ったのです。

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▲当時の先生方の写真を見る谷さん。


佐藤先生のお葬式では、和音感教育など音楽業界についての業績はまるで触れられませんでした。
「一度TVに出られたことがあるのですが、それは地元の『あさがおの会』の会長としてでした。お葬式でも『あさがおの会』が取り上げられて、音楽家・教育者としての業績はまるでなかったかのようでした」
佐藤先生の片腕となって、和音感教育を実際に子どもたちに教えた汐見や寿子先生も驚いたようです。

「先生は戦犯にはならなかったけれど、そうされるかもしれない存在だったということがあるかもしれません」
海軍教授として対潜学校に勤め、和音感教育を軍事に利用して、教え子を戦場に送り出した経験は、他の音楽家よりも、深く重く佐藤先生の人生に影を落としたのではないでしょうか。しかし、佐藤先生は、戦後も家族ぐるみで親しく付き合った汐見先生にも杉江さんにも、その胸の内を語ってはいません。ただ推測するしかないことでもあります。
「戦後は寂しかったでしょう」
と、杉江さんは呟きます。

「現代の音楽教育を見れば、佐藤先生はとても正しかったと思います。今の子どもたちは、テレビなどの影響もあって、学校教育でやらなくても、自然に和音を耳につけられる時代になっている」
杉江さんは、企業教育の現場にも入り、6才までの音感教育にも携わりました。
「私は自分の4人の子どもに実験して2才までに絶対音感を身につけさせた。そしたら全員音楽で芸大までいきましたよ」
杉江さんは、子供たちが音楽に親しみやすい本を出版するなど、今も精力的な活動を続けています。佐藤先生の本当の志を、70年たった今、教え子の杉江さんが更に次の世代へと届けようとしているのです。


■戦火の堺から
最後に現在96才の汐見先生の半生を振り返ります。
汐見先生は、堺区の大町西3丁で育ちました。環濠都市堺のほぼ中心で、やや海よりです。その家で、第一幼稚園から、英彰小学校、府立女学校、女子師範学校へと進みましたが、一番の希望ではなかったようです。菅先生のインタビューに汐見先生が答えます。
「本当は東京へ行きたかったけど(両親の反対で)ダメだったから、奈良の女子高等師範学校へ行きたかったけどそれもダメと言われて、女子師範学校へ行くことになったんや」
「先生になりたかったんですか?」
「先生も嫌いやったわ(笑)」

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▲汐見や寿子先生にインタビューする菅道子さん。


しかし、汐見先生は1年飛び級で教師になるほど優秀でした。
「楽器はオルガン、それに歌を習った。増科では国語で漢詩と源氏(物語)、図画で油絵を習いました。教師になってからも、私費で習い事も沢山やったね。ピアノ、習字、お花、お茶、和裁に洋裁。親にお金を出してもらって、それは悪いことしたなぁと後悔してますけど、お蔭で後々生きていくことが出来ました」
殿馬場小学校(国民学校)の教師となり、佐藤先生と出会い、学外でもピアノを習うことになりました。
「佐藤先生は、大きな人で、赤ら顔のこわい人やったけど、『ごはんを食べていけ』ってゆうてね。あの時代にいつもスキヤキを食べさせてくれたりして、嬉しくて毎晩遊びにいきましたよ」

しかし佐藤先生は昭和18年に海軍対潜学校の教授になって堺を離れ、汐見先生も19年2月に結婚して東京へと嫁ぎ、翌年東京大空襲に出会います。焼け出され、堺に戻ってきた汐見先生は再び空襲に巻き込まれます。7月10日の堺大空襲は環濠の中心である大小路電停に照準を合わせて行われました。中心から広がる爆撃の被害は、汐見先生の自宅付近まで及びました。
「爆弾で燃えたのは丁度うちの家までで、あとは類焼です。私も焼夷弾を足で踏みつけて消そうとしたりしました。うちでは母だけが煙にまかれて死んだんです」

家も焼け、母も失った汐見先生の戦後の生活は大変なものでした。どうやって生活の糧を稼ぐのか。その時役に立ったのが、両親が習い事で授けてくれた和裁や洋裁の技術でした。
「ミシンが余っていると聞きつけて、汽車に乗って重いミシンを取りに行ったりしました」
衣類を作るだけでなく、技術を教えることもしました。オルガンや習字を教え、それが今の習字教室につながっています。

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▲雑誌に掲載された汐見先生の作品。


汐見先生の息子の伊藤泰司さんは、そんな苦労を知っているからでしょう。平和への志を持って育ちました。
「うちの父親も、戦時中軍で何をしていたのかは、決して何も言わなかった」
戦争は、佐藤先生だけでなく、多くの人の口を閉ざしたのです。

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▲汐見先生の息子の伊藤さん。

そうして戦後消えてしまった和音感教育の遺したものはなんだったのでしょうか。
ふと、教え子の吉田美代子さんに和音感教育が何かその後の人生に役立ったかを聞いてみました。
「そうね。カラオケにいくと、みんなに上手いってほめられるわ(笑)」
生活の中で音楽を楽しめる日常。そんな暮らしこそ、佐藤先生も喜ばれているかもしれませんね。

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