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雑記帖 No.075

戦時下のハーモニー 2

和音感教育と国防

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70年以上前、絶対音感と和音を教えるまったく新しい教育が戦時下の堺で始まりました。いつしか、それは「堺の音感」と呼ばれるようになって注目を集め、日本のみならず、当時の植民地であった台湾などからも、見学者が押し寄せるようになりました。しかし、注目したのは、教育者だけではありませんでした。


■国策として
古いフィルムに映る未舗装の道を歩く子どもたちが、見事なハーモニーの歌声の映像。それは和音感教育を記録した映像です。実際に和音感教育の指導をした汐見や寿子先生と教え子の皆さんと一緒に映像を見ていると、知った顔も登場したようです。
「(教えている先生は)松川さんやわ。松川さんは綺麗だから撮影に選ばれたんでしょう」
汐見先生はそんな冗談を言って笑います。96才になる汐見先生ですが、当時の事をはっきりと覚えておられます。
映像の中では、カードを使った教育の様子なども記録されています。この映画のタイトルは「耳と国防」。昭和15年の制作です。この頃の日本は、日中戦争の只中で、アメリカとの開戦を翌年に控えています。

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▲どこの児童かはわかっていませんが、英彰小学校の子供たちではないかと推測?


「耳を鍛えれば国防に役立つ」
絶対音感を持つ耳なら、潜水艦のスクリュー音や、戦闘機のプロペラ音を聞き分け、機種や位置を割り出せるに違いない......そんな発想から、軍部が和音感教育に目をつけたのです。
「戦闘機のプロペラ音が録音されたレコードを聞いて、『B29、高度何千メートル。カーチス、高度何千メートル』って機種と高度を答えるんです」
教え子の一人、昭和8年生まれの吉田美代子さんは和音感教育の一環として軍事訓練を受けたことをはっきりと覚えていました。吉田さんたちの世代は、昭和15年入学、翌年昭和16年尋常小学校から改組されて生まれた国民学校2年生として、汐見先生の和音感教育を受けました。
「1年生から教えはじめて、3年生でコーラスが出来るようになって、4年生で完璧な和音が出来るようになりました」
汐見先生がそう誇った和音感教育の成果でしたが、その先は誰も見ることが出来ませんでした。汐見先生は結婚して退職して東京へ引っ越し、和音感教育の発案者佐藤吉五郎先生も海軍対潜学校へと引き抜かれただけでなく、いよいよ戦局が厳しくなったのです。
「5年生になる頃には空襲が激しくなって、もう授業どころではなくなりました」
昭和19年末ごろから、日本本土への空襲が本格化しはじめます。昭和20年の3月には国民学校高等科の授業も停止。3月東京大空襲、大阪大空襲、7月には堺大空襲......そして、原爆投下、8月15日に終戦を迎えます。

堺から引き抜かれた佐藤先生も苦戦していました。後に音楽家になる絶対音感の素質のある生徒もいたようですが、そんな例はごくわずか。
「大人には絶対音感が身につかなくて、小学生を募集したそうです」
戦局も大詰めになった頃には、和音感教育を受けた子どもたちを集め、戦場には出なかったものの潜水艦に乗せるということも行われました。

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▲教え子の一人・杉江正美さんには特別な思いがありました。


そこまでした和音感教育の軍事訓練ですが、もし実戦に投入されたのならば、役に立ったのでしょうか?
「あれは大いに無駄でした」
そう強い口調で言うのは、教え子だった杉江正美さん。吉田さんとは同学年の昭和8年生まれです。
「稚拙な録音のレコードを聞かせて、あれは非常に無駄でした。アメリカ軍はガタルカナル以降はレーダーを使っていたんですよ」
杉江さんは、和音感教育が軍事利用されたことそのものに憤りを感じているようでした。
「佐藤先生は騙されてしまったんです。軍事に走ったことは大きな間違いでした。それが悲劇な部分でした」
杉江さんの人一倍の思いには理由がありました。それは、杉江さんと、佐藤先生との出会い、音楽との出会いに深く関わっているのです。


■和音感教育が生んだもの
この日、集まった汐見先生の教え子は4人。
吉田美代子さん、杉江正美さん、風智恵子さん、谷保さんです。

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▲軍事訓練の想い出を語ってくれた吉田さんは、5年生の時にNHKのラジオ放送でオーケストラをバックに歌ったりもしました。


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▲風さんは、1年生の時クラス全員で歩いて英彰小へ発表に行きました。2年生でポリオになり、歩けなくなりますが、「流浪の民」「美しきドナウ」など習ったこと、汐見先生に言われて友達が家に遊びに来たことが思い出として残っています。


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▲谷さんは、昭和5年生まれで少し年上です。「国防のために頑張るというのは当時の軍国少年としては普通のことでした。戦後になってもっと早くやめればよかったと思いましたよ。空襲の時、焼夷弾が落ちて水をかけにいったけれど、熱くて熱くて......」


4人の教え子は、それぞれ和音感教育の楽しさや、軍事教育の思い出を語ってくれました。
杉江さんは、幼稚園の頃には和音感教育を受けていたのですが、国民学校では習うことは出来ませんでした。
「僕は男の組だったから、汐見先生に音楽を習うことが出来ずうらやましかった。校庭から、放課後に居残り授業をしている音楽室に近づいて、鉄棒にぶら下がって遊んでいるふりをして授業を聞いていた」
盗み聞きをして覚えた音楽。鉄棒にぶら下がって、口ずさんでしまった歌を聞きとがめた先生が、誰あろう佐藤先生だったのです。
「『なんで男やのに、お前しってるんや』と佐藤先生に驚かれました」
佐藤先生に知られたお蔭で、福場先生という先生に音楽を教えてもらうことが出来たのですが、男が音楽を習うことが気恥ずかしくてすぐにやめてしまいました。
「男やというだけで、ちゃんと教わっていない。そのことにずっとこだわりがありました。ただ、歌のテストがあって、汐見先生から最高点をもらったんです。その後、僕は中学以後も音楽はいつもいい点だった」
高校は泉陽高校へ。大学を出て、杉江さんは音楽の先生になります。それだけでなくテレビ番組の仕事も。
「学校の教師をしていたから普通はダメなんだけれど、その番組が教育関係の番組だったこともあって、学校からも『やりなさい』と」
番組でピアノを弾いたことがきっかけとなって、CMの作曲なども数多く手掛ける作曲家になり、大学でも教鞭をとると音楽教育の学会を立ち上げ理事長も務めます。

音楽家、音楽教育者として活躍する杉江さんは、卒業後も佐藤先生と親交を深め、それは佐藤先生が亡くなるまで続きました。しかし、戦前和音感教育であれほどもてはやされた佐藤先生の晩年は寂しいものでした。
「お葬式では、佐藤先生の音楽教育の業績はまるで語られなくてショックでした」

第3回では、あれほどもてはやされたのに忘れられた音楽家・佐藤吉五郎の軌跡と人間像に迫ります。

(第3回へ続く)
→第1回の記事はこちら






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