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雑記帖 No.074

戦時下のハーモニー 1

堺だから和音感教育がはじまった

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未舗装の道を歩く子供達がハーモニーを奏でるモノクロの映像があります。古い映画のワンシーンでしょうか。
答えはイエス。
ただ、この映画には、子供達の歌声の映像につけるには、いささか厳しいタイトルがついています。
『耳と国防』。そう、このフィルムは75年前の戦時中に作られた映画なのです。映画のテーマは和音感教育。全国に先駆けて堺市でのみ取りくまれ、全国的な 注目を集めた絶対音感と和音を子供達に教える進歩的な音楽教育でしたが、戦局が厳しくなる中、軍部に利用されたことにより、戦後は歴史の中に消える運命をたどります。今回は70年ぶりに発掘された和音感教育に迫ります。

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▲合唱しながら登校する児童。『耳と国防』より。


■和音感教育の発掘
その日、習字教室にはTVカメラが入り、新聞記者たちも姿を見せていました。彼らの取材対象は、和音感教育の証言者たちです。
96才になるという汐見や寿子先生は、この習字教室の現役の先生であり、また戦時中には堺の小学校で現場にたって和音感教育の指導をされたという女性。
この日は、当時の教え子である四人の男女も関西一円から集まってきました。

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▲四人の教え子の皆さん。右手前から杉江正美さん。マイクを握る吉田美代子さん。右奥は谷保さん。その左が風智恵子さん。


貴重な証言を聞くこの集いの開催には、三人の人物が関わっています。
まずは和歌山大学教育学部の音楽教育教授の菅道子さん。菅さんは、研究を通じて堺で実施されていた和音感教育につきあたり、その証言を探して学校を訪ねるうちに、五箇荘小学校の池田校長先生から、一人の女性を紹介されます。
それが、『つーる・ど・堺』でも何度も登場していただいている『堺たんけんクラブ』などで活躍する小松清生さん。小松さんは、元小学校教師で、堺の埋もれた歴史を様々な活動で発掘していましたが、父が金岡連隊に所属していたこともあり、特に戦時中の歴史に注目していました。堺平和のための戦争展にとりくみ、戦後70年の節目に、『平和をつなぐパネル展』などの実行委員も務めています。
菅さんから和音感教育についての問い合わせがあった時、小松さんはすぐに意気投合。堺市立図書館の協力を得て調査を開始しました。3才でお父さんが戦死、国民学校一期生で学童疎開も体験という、錦小学校出身の渡辺泰助さんの体験を記録している時でした。菅さんの論文の中に、映画「耳と国防」とともに、SPレコード「和音感教育の実際」の録音の書きおこしの一文に驚きました。「キシトオルさん、ひとりで言ってごらんなさい」「はい HDG FAC EGC DGH GHDF」「今度はワタナベタイスケさん」......とあったのです。
 岸亨さん達同窓の方々が毎月楽しく交流されていることがわかり、75年前のかわいい声に耳を傾けながらのにぎやかな証言の会が実現しました。
 戦中の五箇荘小学校におられた鵜木幸子先生も、一緒に訪ねました。鵜木さんは、暗い時代だったのに、音楽指導は楽しかったとい思い出を語り、いきいきと歌い続けるのでした。これらの証言を記録した「金岡公園ピースメモリークラブニュース59号」を発行。それを目にした伊藤泰司さんが「母親の話を聞こう!」と言われたのです。伊藤さんはともに堺戦争展にとりくんできた仲間で、和音感教育を教えていた汐見先生の実の息子だったのです。

小松さんは冒頭の挨拶で、
「和音感教育について沢山の証言が集まっています。記録にとどめ、心にとどめたいたいと思います」
堺市の視学・佐藤吉五郎がはじめた和音感教育は、汐見先生など現場の教師の指導によって、2万人の児童が体験したといいます。
記録映画のフィルムにあったように、当時では考えられない合唱をし、絶対音感を身につけた子供たち。一体なぜ、このような教育が生まれたのでしょうか?

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▲汐見先生の習字教室にTVクルーも入って取材。マイクを握るのは小松清生さん。


■和音感教育の誕生
昭和12年。佐藤吉五郎は、岡山から堺に呼ばれ、最初は堺市立女学校の教師に、その後すぐに堺市全体の教育を見る視学となります。
「当時、日本に新しい音楽教育をという動きがありましたが、佐藤先生の和音感教育は『決められた指導方法ではない』と、東京では受け入れられませんでした」
よく『もののはじまりみな堺』というように、新しいものを受け入れやすい土壌や、佐藤先生を堺に招いた今西学事課長の後押しもあって、和音感教育は堺でスタートします。

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▲ユーモアたっぷりの語り口の汐見先生は、御年96才で現役の習字の先生です。


汐見先生は、殿馬場小学校(現在の殿馬場中学校の場所にあったが、戦災後廃校になった)に赴任した当時を振り返ります。
「私はぜひ音感教育をやりたいというつもりはなかった。佐藤先生の言われるままに、合唱を教えていたら、勝手に子供たちは出来るようになっていた。えらいもんやなぁ」
幼稚園と小学校の20校ほどで和音感教育は行われましたが、佐藤先生の授業のアイディアは独創的で、思い描いた授業を満足に出来る先生はほとんどおらず、汐見先生は貴重な存在でした。
「グランドピアノを独り占めして、ずっと練習用に使っとったね」
汐見先生のクラスには優先的に音楽室を使用し、一日中和音感教育を行っていました。
「特別学級、モデル学級のようなものだったんですね」
と、菅さんは言います。

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▲和歌山大学教授・菅道子さん。

都合がいいことに、当時の殿馬場小学校の目の前に堺市役所があり、視学として市役所に勤務していた佐藤先生は、毎時間のように飛んできて授業の様子を見たと言います。

和音感教育は、「堺の音感、堺の音感」と言われ大きな評判を呼び、全国から視察が訪れるようになります。
「市役所に色の浅黒い人がおるなぁと思ったら、台湾からきはった人やった」
遠い北海道や、日本の植民地だった台湾や朝鮮からも、毎日のように視察が詰めかけたのでした。

一方で、昭和16年に太平洋戦争がはじまり、戦時の気配が強まっていくと、文部省の指導により、音楽と体育の時間が減らされるようになります。それぞれ一時間ずつあったのが、合わせて一時間あればいいといった具合です。

しかし、佐藤先生はそこでとんでもない工夫をします。
「音楽と体育の授業を一体にした音体というのをやりはじめたんです。たとえば、跳び箱で、タタタタタタタ、ターンのリズムで飛ぶ。すると跳べない子も跳べるようになったりしました」
汐見先生のピアノに合わせて子どもたちがコーラスしながら円になって歩いたり、徒手体操をしたり。
そんなかつてない授業を見学にきた堺の先生たちは、
「僕らはようせんわ」
とお手上げだったといいます。

佐藤先生の和音感教育を行っても、それを楽しいと感じることが出来たのは、ごく一部の先生に教わった児童だけでした。それほど、教師としての技量や知識、力量が求められる教育だったのかもしれません。

(第2回へ続く


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