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颯爽人 No.072

落語家 桂紅雀(1)

この面白いもののそばにずっといたかった

桂紅雀
profile
桂紅雀
1971年生まれ。滋賀県滋賀郡出身。堺市在住。
1995年9月 故桂枝雀に入門。1996年4月。京都・東山安井 金比羅会館「桂米朝落語研究会」にて初舞台。レギュラー番組は、びわ湖放送「テレビ滋賀プラスワン」(土曜日12:00~12:20)。


堺在住の落語家・桂紅雀さんにお会いしたのは2016年のこと。堺市の文化財である町家歴史館山口家住宅で開催された「落語で語る堺のあれこれ」でした。紅雀さんは、毎年開催されるこの人気イベントで落語を披露するばかりか、座談会の司会もこなしています。堺の歴史や文化と落語を結び付けてエンターテイメントに昇華するのは、簡単なことではないでしょうに、山口家は一杯のお客様の笑いに包まれていました。
この難しいミッションをこなす紅雀さんとは一体どんな落語家なのだろう。興味をもってコンタクトを取ると、お話を伺うことができました。場所をお貸しいただいたのは、紅雀さんの落語会が開催されたこともある堺市北区の「すし半」さんです。


■北の国から

桂紅雀さんとお鮨
▲今回お話を伺った『すし半』さんは北区で50年続く老舗です。


滋賀県出身の紅雀さんは、北海道の酪農学園大学へ進学します。実家は農家でもなく、看護婦をしていたお母さんのもとで育ったそうですが、なぜこの進路に?
「当時(TVドラマの)『北の国から』に憧れたんです。自分なりにこれからは自給自足の時代やと思って、農業系の勉強をしておけば1人で生きていけるやろうと北海道の大学に進んだんです」
『北の国から』に憧れたファンは数多くいたでしょうが、実際に自給自足を目指して北海道に向かった人となるとそう多くはないでしょう。感受性の高い若者らしいエピソードですが、若き紅雀さんの感受性はいささか高すぎたのかもしれません。大学で待っていたのは、キタキツネではなく落語との出会いでした。

「大学に行くまでは落語に興味はありませんでした。僕が北海道では珍しい関西弁だったので、関西弁いうだけで面白いと思われたのか、友達に漫才をやろうと誘われてオチケン(落語研究会)に行ったんです。そしたら漫才はもうやってない、キミら落語のテープを聞いてみたらとテープを渡されたんです」
このテープの落語に紅雀さんは魅了されてしまいます。
「めちゃくちゃ面白かった。テープは桂米朝師匠の『天狗さばき』だったんですが、強烈でしたね。僕を連れて行った友達がなんのテープを貸してもらったのかはわかりませんが、友達は結局やめちゃいましたね」
紅雀さんは、一本のテープをきっかけに落語の世界へのめり込み、笑福亭仁鶴、桂枝雀といった人気落語家のテープを聞き込み、足しげく落語会へも通うようになります。

「当時は今みたいに交通の便も良くなかったので、北海道まで来る落語家さんは、米朝師匠や仁鶴師匠、枝雀に、桂文枝(三枝)師匠といった有名な人ばかりでした」
 そんな北海道にまで足を延ばす有名落語家たちの落語を聞きに落語会に通う日々、学業はすっかりおろそかになっていました。
「2回生の頃から大学にはオチケンに行くぐらいで、授業にはずっと行ってなかった。4回生の時に、卒業まであと2年半かかりますと言われてそれなら辞めますと。多分除籍になっているかと思います」
結局北海道には4年半いて、滋賀に戻ってフリーター生活を始めます。しかし、そこで紅雀さんは、思い切った行動に出ます。テープで聞き込んだ落語家さんの中でも桂枝雀さんにすっかり魅入られていたのです。
「枝雀さんのそばにいたい。あんな面白いものはない。どうせ断られるんやろうから、自分の気の済むまではいかしてもらおう」
決意の瞬間、枝雀師匠が寒気を感じたかどうかはわかりませんが、紅雀さんの一途な行動が始まります。やっぱり紅雀さんは、人一倍感受性の強い若者でした。


■枝雀を追って
桂紅雀さん

当時、人気落語家の桂枝雀は日本全国を飛び回っていました。紅雀さんは、枝雀さんの公演情報を掴むと待つことなくすぐに飛んでいきました。最初に枝雀さんと会うことが出来たのは愛知県でした。
「たしか落語じゃなくて、お芝居の公演だったと思います。お芝居もやってはりましたから。楽屋で待ってて弟子にしてくださいと言ったら、『いやいや弟子とってないねや』と、それだけでしたね」
断られて当然と思っていた紅雀さんは、その場で次の行動に移ります。
「事務所の方が丁度いらっしゃっていて、お会いするとことが出来たんです。すると次は青森へ行くと教えてもらえたのです」

紅雀さんが次に枝雀さんと会ったのは青森県弘前市でした。
「そこでも『こないだどっかで会ったな。でも弟子とってないねんな。ごめんな』と言われました」
それも紅雀さんにしてみれば想定内のことでした。ただ今回はそれで終わらず枝雀さんからの問いかけがありました。
「『次も来るんか』と。弘前市の次は八戸でしたから、『行こうと思います』と。ところが八戸に行かしてもらったらチケットは完売でした。楽屋土産だけ持って行ったんですが、これが神戸皇蘭の豚まんで、全然八戸土産になってない(笑)。その次は千葉の市川市で、ここまで来たら回って行こうと思って行ったんです。公演は昼夜公演でチケットは完売でしたが、合間の時間やったらお邪魔にならへんかな? と思って楽屋へ行くと『やっぱり来たか。実はさっきみんなでまた来るかな? みたいな話をしてたんや。ちょっと話をしよか』と言ってくださったんです」
紅雀さんはついに憧れの枝雀さんと2人きりで楽屋に残されます。
「師匠から、なぜ自分が弟子をとらないのかという話を延々としていただきました。『僕が教えられるには家族にならないといけない。疑似家族にならないと伝えられない。僕が子どもとして見られるのは3人までや。せやけどもう7人もとってもうた。もうとても無理です。だから15年も弟子をとってない』それは本にも書いてある話なのですが、僕は読んでなかったので、『君はそれも読んでないのか』と怒られました」
枝雀さんは、怒りながらも15年間で断った弟子入り志願者のエピソードを語ってくれます。
「その話を真面目にしてくださるんですけど、それが面白くて面白くて、様子を覗いた(桂)文我兄さんが『弟子志願に来て、こんなにゲラゲラ笑ってる奴ははじめてや』と言わはるんですけど、僕は全然覚えてないんですね」
ついに粘り勝った紅雀さんは、桂枝雀の8人目の、そして最後の弟子となったのです。


■落語家が出来るまで
弟子入りから独り立ちするまで、どのように修業期間を落語家さんは過ごすのでしょうか。
「一門によって違うのですが、名前をいただいて舞台に上がるまで2年間は師匠のお宅に住み込みました。他は3年間の所もありますが、うちは2年間。卒業してからも、先輩は先輩、師匠は師匠の関係は変わりません」
桂紅雀という、この華やかな芸名の由来も気になります。
「たまに女性に間違えられる時もありますね。僕の本名が大江というのですが、大江の江のつくりに、空き目をあてたんです。枝雀の『4』、雀三郎の『3』、む雀の『6』と、九雀の『9』があって、5が空き目だったから、紅雀になったんです」
やはり芸名が決まった時は嬉しかったり、これはちょっとと思ったりするのでしょうか。
「僕はずっといらない人間だと言われていたので、嫌なんてないですよね。師匠からも『来てくださいと言われて来たんじゃなくて、いらないと言われたのに押しかけで来たんですからね』と、もうおるだけの空気と同じですから、これが名前やと言われたら、はいそうですかと言うだけです」

桂紅雀さん

そんな『空気と同じ』という紅雀さんの『疑似家族』の生活は、しかし濃密なものでした。
「赤の他人が家に入ってきても、あんなに無防備に振る舞う人は見たことがありません。師匠はお金を触るのはいややからゆうて財布も渡す。お風呂からすっぽんぽんで出てきて、若いもんに体をふかす。信用する関係を生み出そうとしていたのかもしれないですね。それぐらい密に接しないと伝えらえないものがある。黙っていても師匠が何を考えているのか感じられる関係にならないといけないとおっしゃっていました。とはいえ僕は3年半しかいられなかったし、先輩でも『あいつはわしの言いたいことがわかってない』とよく怒られていましたけどね(笑)」
枝雀さんのこの無防備は生来のものなのでしょうか、それとも疑似家族の絆を強めるためにどこか作為的に行っていたものなのでしょうか。
「師匠が底意としてどう思っていたのかはわかりません。僕が直接聞いたわけではないのですが、ある人から師匠が『気にしだすと止まらないから、気にしないようにした』とゆうてはったと聞いたことがあります。ただ僕にしてみたら、うちの師匠は怖かった。尊敬もしているし可愛かった。だってあんな風に接してくれる人なんていなかった。すっぽんぽんになって体を若造に全部拭かすなんて出来るもんじゃない」
紅雀さんの語る子弟の生活を想像すると、枝雀さんという方は、他人に対してもとても繊細でひたむきな方だったのだと思わされます。それこそ、裸で体ごと相手に向き合うような師匠。

そんな他にはいない師匠・枝雀と共に暮らし、その後も続いた師匠と弟子の日々は足掛け3年半で突然の終焉を迎えます。1999年4月19日、桂枝雀死去。59才の若過ぎる死でした。

中篇 後篇へつづく)


桂米朝事務所








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