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颯爽人 No.067

中井正弘 堺学のエキスパート(前篇)

「2万年課長」をものともせず

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Profile
中井正弘

関西大学法学部卒。
堺市泉北ニュータウン在住。
現在、日本ペンクラブ会員・「大阪春秋」編集委員・太成学院大学客員教授


■現代につながる生活者の歴史観
知ってるようで知らない堺のあれこれを一冊にまとめた『堺意外史100話』が刊行されました。著者はこれまでも『仁徳陵-この巨大な謎』『南蛮船は堺に入港しなかった-堺意外史』などの著作を世に送り出してきた中井正弘さんです。
『堺意外史100話』を紐解くと、堺市民ならお馴染みの話からレアなエピソードまでバラエティ豊かに収められています。一読して感じるのが、それがいわゆる雑学やトリビアと呼ばれる豆知識的なものとは一線を画しているということです。ただ起きた出来事を取り上げるのではなく、その背景や歴史的な流れ、必然性を浮かび上がらせる筆致でした。そんな感想を伝えると、中井さんはうなずきました。
「よく私のことを郷土史家と言われるのですが、私としてはそれは不本意なのです。郷土史家というと、断片的な知識を並べて紹介するという印象が含まれてしまう。私はあくまで歴史学の一つとして都市の歴史をやっている。都市から日本を、世界を見る。そこに大事な歴史観があり、それを大事にしながら都市の歴史を見る、堺を見るということをしているのです」
では、中井さんが大事にしている歴史観とはどのようなものなのでしょうか。
「よくある英雄中心の歴史観ではありません。都市に生きた人々が、どういう生活をし、悩み、目指し、考えたかにポイントを置き、そのことを通じて現代の我々の生き方、未来を見つめる視点を持てたらと思ってきたのです」

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▲「現代の私たちの生き方につながる歴史観が大切」と、中井正弘さん。話しだすと止まらない。「弁士中止」と言ってくださいよとおちゃめな一面も。


現代の私たちにつながることを大切にする歴史観は、当然『堺意外史100話』にも反映されています。取り上げている100のエピソードのうち、半数近くが近代以降のエピソードなのです。
「1500年前の住居跡が発見されたとなると人々の注目を集めますが、我々の現在の生き方とは関係が薄い。しかし、明治維新から最近までの流れは現代に直接関係があります。たとえば古代に作られた仁徳陵も、その後の長い歴史の中で、地域の人にどのような影響を与えたのかを考古学的な視点を越えて考えます。江戸時代に仁徳陵の墳丘の利用やお堀の水利を幕府や地域の人が、どう争い、どう工夫したのかといった具合です」

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▲政治的な経緯から呼称も様々に変遷している仁徳天皇陵古墳/大山古墳。百舌鳥・古市古墳群のユネスコ世界文化遺産入りを目指していますが、地域の遊山地やかんがい用水の水源だったなど町びとや農民の生活とのかかわりが深かったことも忘れてはいけないでしょう。


堺市博物館の副館長も務め、現在は太成学院大学の客員教授である中井さんだからこその視点だと思えます。しかし、中井さんの出発点ははじめから歴史学者ではなかったのだといいます。
では、どのようにして、中井さんが今や歴史家としてこのような歴史観を持つにいたったのか、その前半生から語って頂くことにしましょう。


■公共の仕事を志す
中井さんは、1940年生まれ。戦中、戦後の苦しい時期に少年時代を送りました。住宅難で栄養状態も悪く、中学にあがってすぐに結核にかかり、一年数カ月の療養生活を送ります。
「貧しかったこともあり、中学を出たら働くつもりでした。当時は4割とか5割は中卒で就職する時代でもありました」
しかし、そんな中井さんの進路を大きく動かした人物がいました。
「中学の先生が、新任の女の先生だったのですが、就職なんかしたら病気が再発すると、高校に行けるように尽力してくれたんです。教育委員会に掛け合ってくれたこともあって授業料免除をしてもらって、お蔭で私は高校に進学できたのです」
この先生の期待に応えよう。それがその後の中井さんの人生を決定づけました。
「先生への恩返しは、自分が豊かになるということではなく、何かの形で社会に還元することと誓ったのです」

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▲1歳児の時に陸軍大将からもらったという賞状。戦時中に生まれた元気な赤子は、将来の兵士としてほめたたえられたのだ。ところが戦中・戦後の栄養失調で死にかけた。「兵士ではなく『反戦の思想家』になりましたよ」


高校時代の中井さんは、物理や化学といった理系が得意でした。
「まだまだ世の中のことを知りたいと進学を希望していましたが、当時は夜間で理工学系は無かった。だから関西大学の夜間の法学部へ進みました」
法学部を選んだのは、高校時代に日本国憲法や国際人権宣言などに興味を持ったからでした。これは、その後の庶民の生活視点の歴史観を醸成する基礎となったに違いありません。

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▲大学時代の先輩と仲間たちとの学生時代以来の研究エッセイ誌の発刊は今も続いている。「政府が国民を年齢で輪切りにして老若を対立させようとしているが、後期高齢の後も終期・末期・終末期・臨終機そして極楽期(各5年)とまだまだるぞと驚かそう、青春に戻れない錦秋を飾ろう」などと面白いエッセイなどを載せている。


昼間の仕事先として、民間企業と公務員の両方の試験に合格しますが、選択したのは大阪府の職員でした。
「民間企業は夜間大学に通わせてくれる確約がなかったこともありましたし、中学の恩師に助けられたこともあって公共の仕事に就きたいという思いが強かったのです」
3年後、次に中井さんは堺市の職員試験を受けて転職します。
「府の仕事をしばらくして、国の業務の地方版をやっているんだなと気づいたのです。都市に関わるという業務は少なかった。堺市の面接を受けた時になぜ転職したのかと聞かれて、もう少し高い給料をもらいたいというのが一つ、そしてもう一つが都市行政に関わる仕事として、企画・調査・広報をやりたいからだと答えました。ところが、企画や調査のセクションは無いというのです。もちろん今ではありますよ。当時は無かった。だけど広報ならある、ということで私は堺市での広報業務についたのです」
それからほぼ40年間の堺市の行政マンとしての人生の中で、実に中井さんは半分の20年近くを広報畑で過ごすことになります。


■広報は行政のトップマネージメント
当時、職員からは広報業務は不人気だったそうです。
「皆、人事や財政といった、将来出世できそうな所へ行きたがりましたからね」
しかし、中井さんは広報で水を得た魚のように働き、広報紙を一新します。
「よくある市の広報紙だと、トップに市長の挨拶が来る。それでは市長の機関紙です。単なるお知らせや、市の宣伝ではない広報のあり方を私は目指しました。たとえば、私は当時の都市問題を取り上げてきた。公害、急激な都市化と、それに伴う交通事故の増加、住宅問題。生活上の要望も高まり、図書館、保育園、公園が無い。そんな問題が現状の中でどうなのか、堺市はどういう取り組みをしているのか、調査して広報していきました。そうでないと都市自治にはつながらない。行政と市民、それぞれの想いと役割を作り上げていかないと、という思いがあったのです。それにグラフ誌、市政案内誌、TV番組などいろいろな広報媒体の導入をはかりました。私は、広報とは行政のトップマネージメントだと言い続けていました」


広報紙の内容だけでなく、市民に広報紙を届ける配布システムにも手をつけました。
「それまでは自治会にお願いしていたのですが、どうしても配布に時間がかかり、健康診断のお知らせなどが期日が過ぎてから届くようなこともあったのです。私は新聞折り込みで配布することを提案しました。新聞をとっていない家庭はどうするのかなど、問題点をあげて反対する声もあったのですが、そうした家庭もフォローするように工夫して、一年間の試行錯誤を経て、全戸配布制度を作り上げたんです」
中井さんは、ブルドーザーのようなパワーで広報全般を作り変えていきました。その結果、広報一筋で20年間という異例の長さで専念することになります。
「幸いにも、上司からも広報活動は専門性をもっているので簡単に切り替えられないと思われたのでしょう。実は10年目に一度部署を変えられたのですが、広報が立ち行かなくなったので、戻ってこいということになったんです。よく10年たっても出世しない職員のことを『万年課長』といいますが、その後も人権啓発、博物館などを課長・次長待遇のままでいたから、さしづめ『2万年課長・次長』といった所でした」


■付き合い悪いが、夜と土日に研究活動
仕事の合間は歴史研究に費やされていました。
「私が歴史研究、とくに『仁徳陵』や堺の都市研究をはじめたのは、就職してからのアフター5、すなわち仕事を終わってからの夜と、土・日曜です。昼間に働いて、夜勉強するクセはすでに夜間大学で身についていました。それが日常ですから、小さい娘や息子が、夜9時前頃自分がねむたくなると『お父さん勉強しいや』と催促するように横に来る。『それは親が子に言うことや』と苦笑。3時間ぐらい頑張りました」
通信制の大学にも再入学。土・日は図書館などに資料探訪、専門の先生たちに個人指導やアドバイスを受けました。
「だから飲み会、マージャン、ゴルフなどには行けず、付き合いの悪い職員やと思われていたと思います」

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▲珍しい酒場での一コマ。「飲んで帰ってきたなんて家族は驚くよ」と。でもおしゃべりをリードするのはやっぱり中井さん。


■『考古学雑誌』や『大阪春秋』誌に次々論文やエッセイを発表
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▲最新刊の「堺意外史100話」では100のエピソードを収めました。

研究の成果は、雑誌や書籍で発表されることとなりました。
「やってみると、知られていないことが、次々と明らかになってくる。第一発見者の気分になる。研究者冥利でした。論考がしばしば新聞・TVで取り上げられ、それらをまとめて『仁徳陵』『南蛮船』『堺意外史』などの本にすることができました」
例えば、考古学的な調査ができなくても、古文書や古書から『仁徳陵』の内部や墳形の変化などは明らかにできたことは、研究者の間でも大きな問題になりました。

こうした活動は、広報畑を離れてからの中井さんの活動にも活かされることになります。

(後篇へ続く)

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