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颯爽人 No.068

中井正弘 堺学のエキスパート(後篇)

空を見上げた蛙、大海をゆく

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Profile
中井正弘

関西大学法学部卒。
堺市泉北ニュータウン在住。
現在、日本ペンクラブ会員・「大阪春秋」編集委員・太成学院大学客員教授


英雄ではなく現代の私たちにつながる庶民の視点で歴史を掘り下げた『堺意外史100話』の著者中井正弘さんは、中学時代の恩師の助力もあり、苦難を乗り越え進学し、公共のために働こうと意欲をもって堺市の職員となります。「広報は行政のトップマネージメント」と、平職員ながら広報業務を一新させ、無くてはならぬ存在となったため、中井さんは異例中の異例の長さで20年間も広報課に勤めましたがついに異動の時が来ます。そして、次なる職場でも、中井さんの進撃は続きます。


■人権啓発でも歴史を重んじる
「私が次に行ったのは、人権啓発行政です。市の人権行政の取り組みとしては、同和対策部門と人権啓発部門がありましたが、このうち人権啓発局に行ったのです。ところが、行ってみると驚きました。歴史的な観点や事実をしっかり踏まえていない、無理な啓発をしているんです」
市の職員はもっと歴史の勉強をする必要がある。そう思った中井さんは、平和と人権資料館の設立を企画します。
まず戦前・戦中にいかに市民が戦争に加担させられ、徴兵させることを名誉の出征とされ、堺が焦土になったことを『平和いのち・戦災資料集』の執筆編集して発酵。早朝から大勢の市民が並んで配布を求めくる人気でした。
「上司からは開設の予算がない。それに丁度、同和問題の資料館として舳松人権歴史館が作られようとしていましたから、二つも人権資料館はいらないというんです。私はそれは違う。私が作ろうとしているのは、同和問題だけに限らない堺の歴史をふまえた平和と人権資料館だと主張したんです。堺の長い歴史の中には、アジアとの交流がある。中世は自治都市であり平和都市だった。戦争と平和の歴史を明らかにすること。在日朝鮮・韓国人の歴史、女性の歴史を語る資料館なんだと説明しました。当時の市長も理解してくれ、予算確保に動いたわけです」
こうして南安井町の中学校跡を利用して、懇意にしてきた古代・中世・近世・近代史の大学の先生方や市民や職員の協力を得て展示する資料も揃え、大きな予算をかけずに平和と人権資料室「フェニックスホール」を立ち上げたのです。これは中井さんの成し遂げた大きな業績の一つといえるでしょう。

ただ、現在この平和と人権資料室は中区にあるソフィア堺に移設され、展示内容は中井さんが開設した当時とはかなり変わってしまって内容がボケているそうです。


■ミュージアムネットワーク構想
人権啓発局の仕事の次に中井さんは、堺市博物館の副館長の職に就きます。
「当時の堺市博物館はアピール力の弱い博物館でした。開館当初は年間20万人ほどもあった来館者が、5万人にまで落ち込んでいたのです。館長だった角山栄(故人・和歌山大学学長など)さんも努力なさって、梅棹忠夫(故人・国立民族学博物館名誉教授など)さんなど、著名な先生をお呼びしたりして博物館リニューアルを全面的にはかろうとしました」
ここでも中井さんは、長年培った手法を発揮します。
「アンケートを取るのも来館者へのアンケートではだめだ。来ていない人にも話をきかないといけないと言って、来館者以外を含めてのアンケート調査をして、結果を分析して公表するなどしました」
元広報課の面目躍如でしょう。

今では堺の財産としてよく知られるようになったアール・ヌーヴォーを代表するアルフォンス・ミュシャの展を開催できたのもよい思い出と言っています。
「なぜ美術館がすることを博物館がやるんだとの意見もありましたが、そもそも堺には総合的な美術館がいまだにありません」
『ミュシャ展』は、好評を博し20万人という空前の来館者を呼びます。
「『ミュシャ展』の評判もあったせいでしょう。『シーボルト展』や『オランダ博展』をしたいという話もいただきました。外からの持ち込み企画を受け入れたのも、この時がはじめてだったと思いますよ」

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▲退職後、蘇鉄山学会の顧問から2代目会長になり、これまでにない切り口の歴史探訪ツアー「日本最低山縦走サイクリング」なども継続中。また「楽学堺」の名称でもう10年近く講座と現地見学会を開いている。


博物館の常設展示としては、堺の近代がおろそかにされていることに中井さんは強い不満を持っていました。現代とのつながりを重視する中井さんの歴史観からすると当然のことでした。
「堺市博物館は近代が弱い。近代に力を入れるべきだという私の主張は残念ながら内部の共感を呼ぶことは出来ませんでした」
中井さんが博物館に在籍した6年間で、必ずしも思いを全うできたわけではありませんでした。

では、この期間で自身が思う一番大きな業績は何かと尋ねると、中井さんは即座に答えました。
「泉州・紀北ミュージアムネットワークを作ったことですね。それぞれ孤立していた南大阪と和歌山の博物館をつないで、研究研鑽と活動のアピールをしていこうとネットワークの発起人の1人となったことです」
このネットワークは出来て20年になりますが、現在でも顧問をしていることを、中井さんは誇らしく思っておられるようでした。
「それに、ミュージアムコンサートをはじめたことです。絵画展もやりましたが、多くの市民が準備や設営作業を助けてくれてありがたいことでしたね」


■堺学の精神を全てのまちで
堺市の職員を退職した中井さんは、若者や論文を発表していたこともあり、思想・言論の自由を大切にしていこうという文芸家などの日本ペンクラブ会員に推薦されたり、大阪春秋の編集委員などのボランティア、カルチャーセンターや地域の勉強会の講師によばれ忙しく活動してきました。現在太成学院大学客員教授として『堺学』の教鞭をとっています。それも70歳になってからです。
学生に、ただ堺のことを教えるというのであれば、内向きな授業のような気がします。とつっこみを入れると。
「堺から日本や世界を見る。これまでの逆転の見方です。大学は何事にも疑問を持ち、考えることを学ぶところだ。考え方・生き方を学ぶことが肝要と常に話しています。堺出身以外の学生には、自分のまちの身近な資料館などを訪ねてレポートを出すようにいっています。これまで日本の教育では、世界史や日本史を学ぶだけで、自分の住んでいる地域の歴史を学ぶ機会をほとんど与えてこなかった。土地、とくに多彩な職業や生き方をしている人が集まる都市の歴史をおろそかにしてきたんです」
堺を学ぶ堺学をひとつのモデルとして、各地域の歴史を学んでいこうというのが、中井さんの授業なのです。

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▲現在は太成学院大学で客員教授として教鞭をとっています。


「堺のことも巨大古墳が作られたことと海外貿易で栄えただけをアピールされていますが、まだまだ堺というのは調べると魅力多い都市です。歴史豊かで文化もある都市が充分研究されていません。たとえば、南蛮人が堺を闊歩する絵が残っていることもあって、堺は南蛮船が来たから繁栄したと思われがちで、実は南蛮船自体は堺に入港していません。本当は堺の商人が自ら船を仕立てて海外に出ていったから繁栄したんです」
中井さんは、かつての堺商人のアクティブさが今に受け継がれているのかを疑問視しています。
「まね事が多い今の堺市の行政はどうでしょうか。どこからかいいものがこないかという受け身の姿勢でまちづくりをしているのではないでしょうか。他の市がやって成功したからやるのではなく、自ら切り開いていく姿勢が必要なのではないでしょうか。また、最近『堺市立泉北すえむら資料館』が老朽化を理由に閉館しましたが、古墳時代から500年間も全国的規模で生産された須恵器は堺の大切なルーツの1つではないですか。自分たちの歴史を大切にしない。全国どこにでもあるような都市づくりでいいのでしょうか」
長年まちづくりに関わった中井さんだからこその苦言ではないでしょうか。

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▲堺商人の末裔なのか? 趣味のヨットで、今も海に出ます(中井さんは右端。まだ若い?)。井の中の蛙ですからといいながら、シルクロードを旅したり、地球一周の船に乗って南シナ海・太平洋・インド洋・紅海・地中海・大西洋・カリブ海など7つの海を巡っています。


『堺学』に携わっていることで、
「『名前どおり井の中蛙だ』と言われることもあります。そんな時、私は『そうだ。だけどその言葉の続きを知っているか?』と言います。『井の中の蛙、大海を知らず。されど天を知る、というんや』と。後日、『そんな言葉辞書にないぞ』と反論されることもあるんですが、『お前の辞書になくても、僕の辞書にはあるんや』と返すんですよ」

一方で、逆に意外なこともあります。
「『堺を愛してるんですね』って。そうではなく、ただ自分の住むまちを良くしたい。そう思っているだけです」

中学時代の恩師からの恩を返そうと公共の仕事につき、ひたすら自ら住むまちを良くしようと改革に取り組んできた中井さん。時には強引だといわれることも、ことなかれ主義者に足を引っ張られることもあったようです。しかし、その反発をものともせずに突き進んできた様は、まさに大海の荒波を乗り越えて海外に打って出た堺商人のようではないでしょうか?
これからも地に足のついた生活者の歴史観で堺の魅力を掘り起こしていってほしいですね。





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