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まちあるき No.091

堺緞通 織りなす人々の物語1

堺市博物館『堺緞通-手織り技術の独自性に迫る-』レポート

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▲堺市博物館所蔵の堺緞通の織機。幅3mにもなります。

大小の古墳に囲まれた大仙公園内にある堺市博物館。
実はこの博物館に、国際的な研究センターが存在します。2011年(平成23年)10月、ユネスコが賛助する『アジア太平洋無形文化遺産研究センター(IRCI)』が設置されたのです。
「芸能や工芸など、世界中の無形の文化遺産が対象になるセンターなんです」
お話を伺ったのは学芸員の堀川亜由美さん。

IRCIの設置に伴い、堺市博物館では2012年に東南アジアの人形芝居の展示セミナー『東南アジアの人形芝居を楽しもう』などを行いました。
「今年は堺市民にも身近な無形文化遺産を取り上げたいということで、『堺緞通(さかいだんつう)』を取り上げることにしたんです」

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▲大仙公園の中にある堺市博物館。


■驚きの開孔板綜絖(かいこうばんそうこう)
堺市博物館の無形文化遺産理解事業として、『堺緞通-手織り技術の独自性に迫る-』が2013年10月29日から12月1日にかけて開催されました。

ワークショップでは緞通(絨毯 じゅうたん)の故郷ともいえるイラン(ペルシャ)の「手織りキャッべ」に挑戦。イラン人の先生を招いて楽しく手織りにチャレンジしました。

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▲「手織りキャッベ」づくりには多くの参加者が楽しく熱中しました。 ▲吉本忍先生による理解セミナーの講演。

理解セミナーでは国立民族学博物館の吉本忍教授を招いての講演。吉本さんは、半年前に堺市博物館所蔵の堺緞通の織機を見て驚いたとのこと。
「こんな巨大な開孔板綜絖(かいこうばんそうこう)は見たことがない!」

開孔板綜絖というのは、織機の重要な部品で、縦糸を一本ずつ互い違いにするための装置です。通常は腰ひもなどの幅の狭い織物や、目が粗くても構わないムシロのような織物に使用されます。絨毯の織りに使用されることは珍しく、ましてや堺市博物館の所蔵する幅3mにもなろうとする開孔板綜絖など、吉本さんも見たことがなかったのです。

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▲開孔板綜絖の仕組みを模型を使って説明していただきました。縦糸が孔・溝・孔・溝......と交互に通されています。開孔板綜絖を手前に引くと孔に通した糸だけが手前に。 ▲開孔板綜絖を奥に押し込むと、やはり孔に通した糸だけが奥に。横糸を通す度に手前、奥と板を動かせば格子状に織りあがっていきます。


■シルクロードの行き着く地
絨毯の歴史は古く紀元前にいきつきます。ロシアの永久凍土から発見された絨毯は、紀元前5世紀のペルシャ製であると推測されているとか。
ペルシャの絨毯は、シルクロードを通って中国へ伝わりました。そして日本では元禄年間に鍋島藩(佐賀県)で鍋島緞通がはじまり、赤穂緞通(兵庫県)へ。そして天保2年(1831年)に、中国緞通と鍋島緞通を参考に堺緞通の生産が始まります。手がけたのは堺・車之町の糸物商・藤本庄左衛門だったとか。

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▲吹田市の万博記念公園にある国立民族学博物館(みんぱく)所有のイラン絨毯(奥)。

「堺緞通は、鍋島緞通、赤穂緞通を含めた三大緞通の中で唯一大々的な海外展開を行った緞通です」
明治に入って、庄左衛門の孫にあたる藤本荘太郎は、緞通を明治天皇に献上。堺緞通組合を設立し、シカゴの博覧会にも出品して好評を博し、海外輸出をはじめたのです。明治28年(1895年)のピーク時には、年間で89万畳も生産したとか。

荘太郎は大量生産を可能とするため、毛糸を切りそろえる鋏を手鋏に変えるなどの工夫をしており、巨大な開孔板綜絖も効率化のためのアイディアだったように思われます。
「しかし、明治30年代にはアメリカで高い関税をかけられ、また粗悪品だとの評判がたったり、より安い海外産の絨毯に押されて輸出は激減したようです」


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▲資料映像に残る辻林さんの姿。開孔板綜絖を操作し、その重みでくくったパイルを押さえつけます。 ▲縦糸に一本ずつ右手でパイルを結び付け、左手に握った手鋏で切ります。一段巻きつけた後で横糸を通し、筬(おさ)と呼ばれていた開孔板綜絖で押さえつけます。

その後堺の織物は機械織りが主流となり、手織緞通は廃れてゆき、平成になってはついに辻林白峯(峯太郎)さんただ一人が伝統の技を継承するようになったのです。その辻林さんも平成4年に他界されています。


■伝統の継承者たち
鮮やかな流星のように輝きを放っては、瞬く間に歴史の狭間に消え去った『堺緞通』。今回の展示がきっかけで巨大な開孔板綜絖の独自性が認識されたように、わかっていないことが非常に多いのだそうです。

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▲展示されている『堺緞通』も、学芸員が京都の骨董店で偶然発見したものです。堺市博物館では、数年以内に堺緞通の大きな展示企画を行いたいそうです。

「何しろものがありませんから」
まず、堺緞通自体が現物としてほとんど残っていません。
最後の職人だった辻林さんもお亡くなりになり、関係者も少なくなって、戦前のことはすでによくわかりません。
「先日、92才のおばあさんで10才の時から織子をされていた方にあってお話を聞くことができました。堺で鋏を買ったとか、織機の筬(おさ)が壊れやすくて筬屋さんを呼んで直してもらった話など、貴重なお話でしたね」

現在、手織緞通の技術は何人かの人々によって継承されています。それは辻林さんの死後、緞通と出会った4人の主婦。そして田出井町にある大阪刑務所の受刑者なのです。

どのようにして『堺緞通』の技が受け継がれたのか、伝統の『今』を知るため、堺市中区東山にある『堺式手織緞通保存協会』を訪ねることにしました。

次回へ続く。


堺市博物館
堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁

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