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まちあるき No.050

黄金のまち堺から聖山高野山へ 第四回

~高野街道 観光ガイドとテクテク十三里~ 滝谷→河内長野

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高野山女人堂から、堺の大小路まで続く信仰の道『西高野街道』には、江戸時代の茱萸木村の農民・小左衛門と五兵衛が発起人となって一里(約4km)ごとに合計13個の里石が置かれました。
この西高野街道を、堺市市役所から高野山に向かって歩く旅もいよいよ中盤。堺生まれの灯台守 カエルとホモサピエンスのお姉さんの二人は、大阪狭山市を過ぎ河内長野市へと足を踏み入れます。
旅は奥河内へ。

■滝谷駅 12:00
kaeru.jpg「お姉さん。奥河内って南河内とは違うの?」
ane.jpg奥河内は、南河内の中でも限定されたエリアで、観光スポットの名称として近年注目されはじめたの。具体的には河内長野を中心として、西は天野山や滝畑、東は金剛山や千早赤阪、南は天見や岩湧山といった山麓に囲まれた地域ね」
kaeru.jpg「確かに西と東の両脇から山が迫ってきていかにも奥まってるって感じがするケロよ。あ、お姉さん、お地蔵様があるよ。『右かうや道 左滝谷不動』って彫ってある」
ane.jpg「右へ進めば高野山への道ってことか。この道は中高野街道になるのね。お地蔵さんに旅の無事をお祈りして出発進行よ!」

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▲滝谷駅から少し西へ進んだ所にある『智恵地蔵』。高野街道は信仰の道とも言われ、随所にお地蔵様が見受けられます。 ▲大阪の平野を起点としている中高野街道。蛇行するくねくね道がいかにも高野街道です。
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▲滝谷駅のある須賀。「賀」は朝鮮語の「集落」に由来するという説がありましたが、南河内は渡来人の一族が勢力をはっていたのでその名残なのでしょうか? ▲今回の旅のスタート時点での万歩計。


■松林寺 12:35~12:45
ane.jpg「富田林の市境を越えて、河内長野市に入ってすぐの坂をのぼると真言律宗 松林寺。貴重な『両界曼荼羅図』があるそうよ」
kaeru.jpgま、漫画だらけ」」
ane.jpgま・ん・だ・ら。漫画だらけでも、まんだらけ(※)でもありません。曼荼羅は仏教(密教)の世界観を描いた絵画のことよ」
kaeru.jpg「両界っていうのは? ひょっとして両性類の世界の事!? ついに時代が両性類に追いついたケロ!」
ane.jpg「残念ながら、古生代ペルム紀(※)あたりで時代は両性類を追い越しちゃってますから! 両界というのは、密教に伝わる金剛界胎蔵界という二つの世界観のことを指しているの。私たちの住んでいる同じ世界を、それぞれ別の見方で説明していると思ってね」
kaeru.jpg「カエルが、オタマジャクシとオトナで世界が違って見えるのと同じようなもんだね!」

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▲路傍にもお地蔵様。「右 かうや道 左 市村新田」と行き先を教えてくれます。 ▲松林寺の鐘は江戸時代に歌に歌われ、高野街道を行く信者に鐘の音が親しまれていたそうです。
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▲松林寺付近の西高野街道にある「おかげ灯籠」。天保2年(1831年)のもの。

※まんだらけ......漫画専門の古書店。マニアックなジャンルのあらゆる商品を扱っている。
※ペルム紀......3億年~2億5000万年前。ワニそっくりの史上最大の両性類プリオノスクス(全長9m)などが闊歩しており、両性類がブイブイいわしていた時代。

『曼荼羅と経典』
仏教の中でも神秘主義的な色合いがある『密教』の世界観を、経典をもとに絵画でしめしたのが曼荼羅です。
『金剛界曼荼羅』と『大悲胎蔵曼荼羅』の二種類があるのは、インドのサンスクリット語の経典を漢語に訳した人や時期が別だったからです。
『金剛界曼荼羅』の基になった『金剛頂経』は金剛智三蔵と弟子の不空三蔵によって7世紀末から8世紀初頭に漢訳。
『大悲胎蔵曼荼羅』の基になった『大日経』は善無畏三蔵と弟子の一行禅師によって8世紀前半に漢訳。
馴染み深い『西遊記』の三蔵法師こと、玄奘三蔵もインドへ旅して経典の漢語への翻訳を行っています。
釈尊入滅後1000年ほどたった6世紀から、8世紀にかけて、一大翻訳ブームが起きていたんですね。


■よつの辻 12:50~12:55
ane.jpg「ここが与津の辻西高野街道中高野街道が合流する辻よ」
kaeru.jpg「道標には、『右平野 是四里 左 さかい大阪』って書いてあるね。このあたりは高台だから、山に囲まれた河内長野の様子が良く見えるなぁ」
ane.jpg「この四つ辻から分かれた坂を登った所にある盛松寺には、弘法大師・空海が祈祷した所から樟(くすのき)が生えて、四つの幹に分かれて生い茂ったという伝説があるの」
kaeru.jpg「それにちなんでこの地域が『四釣樟』と呼ばれ、訛って『与津』って地名になったから、ここは与津の辻になったんだね」
ane.jpg「伝説ではそうなっているけど、四つ辻だから与津とついたと考える方が地名の付き方としては素直な気がするわね。神秘的な伝説が縁起として後から付け加えられたんじゃないのかなぁ」
kaeru.jpg「弘法大師がお祈りすればにょきにょきおっきな木だって生えそうだケロ! じゃあ、伝説の樟を見に行って確かめるケロよ!」
ane.jpg「まって、その樟はもう......って!」

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▲よつの辻。向かって右が中高野街道。左が西高野街道。 ▲よつの辻から盛松寺へと続く道の途中には、千代田学園があり、幼稚園児たちの元気な声が響いていました。学園前から南方向を撮影。高野山系がそびえています。


■盛松寺 13:05~13:15
kaeru.jpg「お、お姉さん。大変ケロ! 伝説の樟が無いケロ!」
ane.jpg「伝説の樟から大師像が彫られたの。像が出来てこのお寺が建立されたのが享保7年。18世紀初頭、江戸時代中期の頃ね」
kaeru.jpg「あ、弘法大師が製法を伝えた万病に効く『柚子みそ』があるんだって。身体によさそう」
ane.jpg「柚子はビタミンCを多く含むから疲労回復効果があるし、香りにはリラックス効果がある。味噌は発酵食品だから、健康効果は高いでしょうね」
kaeru.jpg「さすが弘法大師は平安時代のスーパーヒーロー! 今も庶民の助けになっているケロ!」
ane.jpg「次も弘法大師に並ぶ平安時代のスーパーヒーローゆかりの史跡よ。特に女子人気絶大の天才ね」

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▲本堂の中の様子。うっすらと見えるのが大師像なのか!? 樟は大師ゆかりの霊木として、河内・泉州・摂津に伝わり、信仰を集めました。 ▲柚子みその作り方が写真付きで解説されていました。12月21日の『終い弘法』では、お供物として参詣者に渡されるそうです。



■晴明塚 13:45~50
ane.jpg「さあ、ここが晴明塚。陰陽師・安倍晴明『陰陽推算の書』を埋めたとされている場所よ」
kaeru.jpg「おー。テレビゲームならここでアイテムがゲットできる所だよね!」
ane.jpg「この塚が出来たのは、19世紀の江戸時代後期。晴明がいた頃から、1000年近くたっていたけどこの辺りで『辻占い』が盛んに行われていたみたいね」
kaeru.jpg「辻占い? そういえば堺の大道筋と大小路の次が晴明辻って言われているけど、辻占いって何?」
ane.jpg「夕暮れ時に、偶然耳にした辻で出会った人の言葉をもとにした占いのことよ」
kaeru.jpg「カエルも辻占いをしてみたいけど、まだ夕方には時間があるし......」
ane.jpg「蛙を使った呪術なら色々あるわよ。まず大きな壺を用意して、そこに蛙をいれて......」
kaeru.jpg「ふむふむ.」
ane.jpg「さらに毒蛇や毒虫なども一緒にいれて、生き残った一匹を呪いの道具に使う蠱毒
kaeru.jpg「ぎゃーっ! 蛙負けるって! 食べられちゃうでケロっ!」
ane.jpg「諏訪神社には蛙狩神事っていうのがあって、冬眠中のヒキガエルを掘り起こして弓矢で射て供物に捧げ春を呼び込むんだそうよ......」
kaeru.jpg「それも死んじゃう! ひどい陰陽道は蛙にとって過酷すぎるケローっ!」
ane.jpg「ウロコも毛もない蛙は、五行説では『土気』で人間と同じなんですって。人間の代わりの生け贄なのかしらねー」

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▲ギャラリーを越えた所で不意に姿を見せる晴明塚。天皇の高野御幸に同行した晴明が占いを外してしまい、ここに書物を燃やして埋めたそう。 ▲晴明塚の背後にはお地蔵様。周囲には他に何も無く、観光地化されていない地元の史跡といった風情です。

『密教と陰陽道』
平安時代は、飢饉や疫病、天変地異に悩まされた時代でした。加えて藤原氏が台頭して他の皇族や有力貴族を蹴落とし、内部抗争をする中で、多くの無念の死が生まれ、怨霊となって祟ったとされます。そんな人々の恐れから求められたのが、陰陽道であり密教でした。
陰陽道は512年、百済から日本に持ち込まれました。一時期衰退しましたが、806年弘法大師・空海によって中国から密教を持ち込まれる前後から、再び隆盛しはじめました。密教と陰陽道は互いにライバルとして影響しあっていた模様です。
安倍晴明の師匠である賀茂忠行が天皇に召されたのは、959年。安倍晴明は師匠から陰陽道の天文道を受け継ぎ、その子孫は土御門家となって今にまで続きます。


■原町十三仏碑 14:00~14:05
kaeru.jpg「お姉さん。仏様が沢山いるよ」
ane.jpg「これは河内長野の有形民俗文化財『原町十三仏碑』ね。仏碑としては河内長野最大で、地蔵菩薩と観音菩薩が彫られているわ」
kaeru.jpg「どうして仏様を十三個彫ってあるの?」
ane.jpg「十三っていうのは、死者の追善供養の回数にちなんでいるんだって。初七日から7日ごと7回に、100日・1周期・3回忌・7回忌・13回忌・33回忌の6回を加えた13回の本尊仏だそうよ」
kaeru.jpg「お寺はないけど、立派な仏碑だね」
ane.jpg「もとは阿弥陀寺というお寺があって、江戸時代初期(1634年)に仏碑が建立されたんだけど、お寺は20世紀初めに廃寺になったそうよ」

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▲原町十三仏。仏碑がふたつあり、向かって右が河内長野最大の仏碑です。表面は摩耗しており、400年近い歴史を感じさせます。 ▲原町の地車の倉庫。河内長野あたりから、地車の倉庫の数が増えたような印象がありました。


■膳所藩代官所跡 14:10
ane.jpg「ここが江戸時代に河内長野市内を治めた膳所藩の代官所跡ね」
kaeru.jpgゼゼ? なんだか、人類の補完でも計画してそうだケロ」
ane.jpg「そんなアニメの黒幕みたいな怪しい組織じゃなくて滋賀県の大津市にあった藩で、徳川家の重臣である本多家の本多俊次が河内長野にも領地をもらい代官所を置いたの。本多俊次の父は家康の従兄弟になるわ」
kaeru.jpg「徳川家に連なるような大物にまかされた領地だったんだー」
ane.jpg「河内長野は、西高野街道、中高野街道、東高野街道が集まる交通の要所なんだもの。距離的にも四里から五里で丁度堺から1日歩いて休むにはいい距離ですしね」
kaeru.jpg「堺から1日。そうか、もうすぐ九里石だケロ!」
ane.jpg「この代官所跡の裏手にこの旅の目的である里石があるわ。行きましょう」

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▲膳所藩の代官所跡。幼稚園の脇にあり、かつて牢獄もあったといういかめしい場所には思えません。

■九里石 14:12
kaeru.jpg「あった! 九里石だ。里石を見つけた時ってほっとするね。道を間違えてなかったってわかるもん」
ane.jpg「昔の人達もそうだったでしょうね」
kaeru.jpg「狭山の茱萸木の十里石は控え目だったけど、九里石は、行者堂と一緒になっていて目立つね」
ane.jpg「『左 さかい四里 大坂七里 右 中本山極楽寺』とあるわね。極楽寺は聖徳太子が推古天皇に霊水を差し上げて病を平癒させたことから、薬師如来を本尊として建立されたんですって」
kaeru.jpg「空海・晴明に聖徳太子ゆかりの史跡か。河内長野って長い歴史があるんだねー」

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▲幼稚園を裏手に回るとすぐに九里石があります。ようやく四里(16キロ)ほど堺からやってきました! ▲九里石の背後には行者堂がありました。


■河内長野駅 14:25
kaeru.jpg「駅前で東高野街道が合流! これから一本道になって高野街道で高野山を目指すんだね」
ane.jpg「そうよ。次の八里石があるのは、宿場町である三日市。あの有名な天野酒の酒造も街道沿いにあるから、次回の旅は別な楽しみもありそうね」
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▲河内長野駅前近くにあった七つ辻。開発が進む駅前から少し離れると古い民家も目につきます。 ▲河内長野駅前。ここで東高野街道と合流します。
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▲盛松寺の柚子みその縁でしょうか? 『ゆずスティック』を購入してみました。甘酸っぱさに疲れが吹き飛び、つい手が伸びます。
▲河内長野まで1万歩ちょっと歩きました。



■参考文献
『西高野街道ウォーキング徹底ガイド』
『陰陽五行と日本の民俗』 吉野裕子
『マンガ 安倍晴明&陰陽師がよくわかる本』 川合章子
『日本陰陽道史総説』 村山修一
『もしリアルパンクロッカーが仏門に入ったら』 架神恭介

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