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堺意外史

Vol.35 本願寺の変で家康を逃がした妙国寺の日珖

 この寺には、3つの話題が巷間にのぼり、参詣者が多い。一つは、明治維新に発生した攘夷の「堺事件」である。鳥羽・伏見の戦いで敗北した徳川15代将軍・慶喜が大坂城から幕府軍艦で江戸に帰る。堺奉行所の役人も和歌山方面へ逃亡。そこへ進駐したのが土佐藩兵士。慶応4年(1868)2月15日、フランス軍艦が堺沖に停泊、すでに開国・開市されていた神戸・大坂を回って堺から帰還しようとしたフランス側領事・艦長・日本側役人を大和川で追い返した。知らずに迎えにきたランチ艇が堺港に接岸、2人の水兵が今やおそしと上陸。ここで数十名で待機警備していた藩士とトラブり、一斉射撃で、ランチ乗艇の水兵を含め、アッという間に11名を殺傷。新政府はフランス側の要求により、多額の賠償と箕浦・西村両隊長ら事件に関わった藩士らの切腹を命じた。この妙国寺境内で日仏代表の立ち会いの切腹は壮絶だった。勤皇派首脳は攘夷から開国に方針を変えたが、現場の指揮者には根強い攘夷思想が燃え上がっていた。一方、港付近のまちびとは友好的でお茶や菓子を差し出したと対照的な反応が伝えられている。

 二つ目は、天正10年(1582)、信長の招きで、家康が安土城訪問後、堺へ来て、妙国時に逗留。しかし、突然の本能寺の変で、進退極まったが、住持・日珖のはからいで、伊賀の山越えで、三河に帰ることができた。日珖は当時の開山であるが、豪商の父・油屋常言らが資材をなげだして、一大寺院を完成させたもの。

 三つ目は、初め、摂河泉を領した三好実休が寺城とソテツを提供直後、戦死。そのソテツは今も境内に生きているといわれ、高さ7m・周囲17mもある。かつて信長が安土城に移植したとき、夜な夜な「堺に帰ろう」と泣き、切り倒そうとすると血が流れたので、当寺に返したという伝説である。

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堺「意外史」探訪