堺アートプロジェクトが企画した堺能楽会館での公演は、現代喜劇と狂言の二つのスタイルで650年前に生まれた演目「萩大名」を演じる斬新なものでした。
前篇の記事では、劇団GUMBOの演じた現代喜劇版「萩大名」を紹介しましたが、後篇ではそれと比較しながら大和座狂言事務所(以下大和座)による狂言「萩大名」を鑑賞してみましょう。
■室町時代へタイムスリップ
休憩時間が終わり、観客が客席に戻ってきました。場内アナウンスで、室町時代に生まれた文化の中で能楽は本来権力を笑い飛ばす庶民の文化であったことが語られ、これから能舞台はタイムマシーンとなって、650年前の室町時代にタイムスリップすることが告げられます。観客は室町時代の庶民となって「萩大名」を鑑賞するのです。
すっと五色の揚幕があがると、橋掛かりに演者が登場しました。
登場したのは大名と太郎冠者の2人。大名は京都にやってきた田舎大名で、太郎冠者はその従者です。いう間でもなく、劇団GUMBOの現代喜劇でのダイメイヨウ様が大名に、クラウンツーリストのツアコン3名が太郎冠者にあたります。
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▲太郎冠者(左)の安東陸郎さんと大名(右)の安東元さん。 |
大名は近場にある京の見どころは全部見てしまい、どこか面白い所に連れて行けと太郎冠者に迫ります。太郎冠者は、萩の咲く庭の亭主と顔見知りになっているのでそこはどうかと提案します。ただし、亭主の意向があって、客は即興で歌を詠まないといけないのです。
歌というと当時の俗歌・民謡である小唄を歌えばいいのかと言う大名に、太郎冠者が「その歌でなくて31文字の和歌のことです」と返すと、歌の教養がない大名はとても無理だと怖気づきます。太郎冠者は一計を案じ、扇と脹脛を使って和歌をカンニングする方法を提案します。
現代喜劇版であった頓珍漢な言い間違いの場面はありませんが、小唄→カラオケは現代風へのアレンジで、扇のアイディアはそのまま使用されています。大名は教養のない人物ですが、それに自覚的で隠そうともしない人物として描かれています。現代版のどこか強引な性格のダイメイヨウに対して、大名はうすぼんやりした人物といった違いがあるようです。
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▲安東伸元さん演じる萩の庭の亭主(右)に和歌を強要される大名。太郎冠者は扇で助け船を出すが……。 |
こうして大名と太郎冠者の2人連れは萩の咲く庭を目指して出かけます。その間に切り戸口から亭主が登場し、柱を巡る旅を経た2人の到着を待ち受けます。
庭にたどり着いた大名は庭をよく見ようと床几を持ち出して座ります。
しかし、庭木を見ても「あれは竹か木か」と尋ね木と竹の区別もつかない愚鈍さを披露します。これは梅の名木と教えられ、大名は「伸びている枝が良い」と審美眼があるかのような事を言い、太郎冠者はうなずいて「あれで持っているような木ですよ」と返答したのにも関わらず、大名は「そうかなら根元から切って枝をすりこぎにしよう」と言い出し、太郎冠者を慌てさせます。
次に北山からわざわざ運んできた庭石を見ても、「あの出っ張っている所がいい」「あれで持っているような石です」「あれを切り取って火打石にしよう」と同じようなコミカルな掛け合いが続きます。
最後は萩の花を見て、亭主が謙遜して言う「花が落下している」を「落馬?」と聞き間違えます。これはそれぞれ、現代喜劇版においては「すりこぎ」→「バーベキュー」、「火打石」→「ロッククライミング」、「落馬」→「落下傘」と変更され、現代の生活ではあまり馴染みのなくなったものが現代用語に言い換えられていたことがわかります。
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▲なんとか逃げ出そうとする大名だが、亭主は許さない。 |
庭見物が終わると亭主は、即興の歌を求めます。大名が「田舎者だから許してほしい」と言っても亭主は許しません。観念した大名が亭主に「ちょっと向こうをむいてくれ」と頼むと、客席から笑いが漏れます。亭主の目を盗んで大名が何をしようとしているのか、観客には察しがついたからです。
扇の骨を使ったクライマックスの一幕で、大名は案の定へまを連発し、四苦八苦しながら九重まで詠んだ所であきれ果てた太郎冠者が去ってしまいます。下の句がどうしても出ない大名が太郎冠者の名を呼んでも助けはこず、逃げ出そうとすると亭主に捕まってしまうドタバタが繰り広げられます。
最後には足を見た大名が「ふくらはぎ」から「はぎ」というべきところを「むこうずね」と言ってしまうと亭主が呆れ、大名は面目を失って終演となります。
■戸惑いの正体について
舞台は13時からと17時からの2回公演でした。
現代喜劇と古典を縦軸でつないだ今回の試みを、観客はどんな風に見たのでしょうか。終演後のロビーや後日、何人かの方にお話を伺うことが出来ました。
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▲狂言の亭主と現代喜劇の亭主の時代を超えた邂逅。役者さんの実年齢も60才近い開きがあります。 |
どなたも口を揃えて言うことは、企画としての面白さです。
「現代劇を見てから、狂言を見ることが出来たので内容が良くわかって面白かった」
「想像していたのと違って、狂言が面白くて笑えた。狂言だけでも多分面白く思えただろうけど、現代喜劇で筋を理解していなかったら、ここまで面白いと思えたかはわからない」
どうやら企画の試みは成功したといえそうです。
親子で来られた方の中には、今回はじめて狂言に触れたという方もいました。
「狂言のセリフが面白いですね。子どもがずっと狂言の口真似をしています」
古典は子どもには難しいというのは、大人の勝手な思い込みに過ぎないのでしょう。セリフだったり、仕草だったり、ストーリーだったり、その子どもなりに狂言の面白さを受け取っていたのではないでしょうか。
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▲ラストシーンをはじめダイメイヨウの演出に私たちが居心地の悪さを感じるのは何故だったのでしょうか? |
さて、前篇で触れた現代喜劇版に対する客席の戸惑いの正体はなんだったのでしょうか。実際にお客様に感想を聞いてみると、概ね同じところに引っ掛かりを感じていたようでした。
「最後の終わり方がブラックで、笑っていいのか困った」
「狂言の大名には可愛げを感じたけれど、現代喜劇のダイメイヨウ様はゴメンなさいをして可哀想に感じた」
お客様が感じているものをはっきりと言葉にすれば、このシーンは外国人に対する差別ではないかという疑念でしょう。
それは、まさにその通りです。なぜなら、この現代喜劇自体が、来日する外国人と日本人の間で生じる差別をテーマとしているからです。
お芝居では、カルチャーギャップによる外国人の勘違いと、右往左往する日本人の姿がコミカルなシーンとして描かれていますが、このように外国人には難しいルールを強要し最後には放置する状況と同じようなことがありました。
覚えているでしょうか、2016年頃から、来日する外国人に対して多発する差別事件がニュースでも頻繁に報じられるようになりました。子どもに対する直接的な暴力事件もありましたし、外国人の無知に乗じて大量のワサビを食べさせるという陰湿な事件もありました。その後も「外国人お断り」を貼りだした店舗や、政治家などの差別的な発言も後を絶ちません。
現代喜劇版「萩大名」は、こうした事件や社会状況が下敷きになっています。お客様が笑うことを躊躇してしまったのは、差別的な日本社会を見せられたからですし、何よりも現代の日本の差別的な社会状況が笑えないのです。
作品は、積極的な加担者でなくとも、社会の一員として差別を放置している時点で消極的な加担者となっている私たちの姿を映す鏡のようなものです。見るものに刃を突き付けるような恐ろしさ、「毒」を現代喜劇版「萩大名」は含んでいたのです。
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▲劇団GUMBO代表の田村佳代さん(中央)。田村さんが学んだフランスの演劇メソッド・ルコックシステムは社会風刺を取り入れたもの。 |
では、狂言「萩大名」はどうなのか。
「現代で権力者は誰かというと、裕福な外国人がそれにあたるのではないかと思った」
と、今回の現代劇に置き換える際の意図を、劇団GUMBO代表の田村佳代さんは語っていました。
権力者である大名を笑いものにするのという狂言の構図を、現代喜劇で日本経済に大きな影響を与える経済力があるものの差別にもさらされる外国人旅行者を笑いものにすると当てはめるのは、ずれが生じているようにも思えます。たしかにイコールではない。
しかし、ここでもう一度狂言「萩大名」で何がテーマとされているのかを思い起こしてみます。「萩大名」の大名は権力者ですが、田舎者という設定でもあります。
古い時代には京都を聖域とし他と区別する世界観がはっきりあったように思えます。京都が都となった平安時代以降、疱瘡(天然痘)などの疫病と並んで地方の武装勢力も、外からやってくる忌むべきものでした。当時の京の人にとっての地方は、現代日本の排外主義者たちが思う海外と限りなく近いものなのかもしれません。
武力はあるけれど無教養なバーバリアン・田舎大名が都で大きな顔をしていると、当時の京の人々は苦々しく思い、それを創作の世界でやりこめて笑っていた。ただ権力者を笑いものにするだけでない、差別意識に基づく意趣返しを笑いの形にしたという面が「萩大名」にはあります。
そうであるなら、田舎大名を外国人に置き換えた現代喜劇版「萩大名」は、「毒」も含めて狂言「萩大名」を現代に置き換えたものだといえます。
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▲ダイメイヨウを務めたGloriaさんはシンガポール出身。音響と舞台監督のKelvinさんは香港出身。どちらも植民地としての記憶は生々しく、この作品が題材にした差別について、そうした経験を踏まえた話し合いがもたれたという。 |
喜劇として狂言「萩大名」が素直に笑えるのは、ひとつには室町時代の社会的状況が、私たちにとって遠い過去の「乾いた」もので現代人は他人事として安心して笑えたからということ、もうひとつは650年かけて演出が洗練されていたことの二つがあげられます。
現代喜劇「萩大名」が素直に笑えないのは、演出では、狂言が60%をお客様の想像に任せるものであるのに対して、現代喜劇ではより具体的に見せる手法をとったこと。「生々しさ」はよりましたし、650年の洗練に比較すれば、生まれたての荒々しさもあった。しかし、それ以上に、現代人にとって自分たちの差別意識、差別的な状況をそのままにしている自分たちのことを扱った「生々しい」作品だから笑えなかった。
付け加えるなら、狂言のような権力を笑い、差別を扱うような毒のある笑いを、すっかり忘れてしまっていたから、驚いてしまって笑えないのです。こんなにも差別が野放図な社会になったのも、毒のある笑いを忘れてしまった時代に相応しい状況です。
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▲堺能楽会館の館主大澤徳平さん。 |
はたして、650年の研磨を経て「付け加えるところがひとつもない」洗練された「萩大名」を、現代喜劇に翻訳したことは余計なことにすぎないのか、それとも650年たってはじめて演目の新しい可能性を開拓したことになったのか。毒のある笑いを蘇らせた点において、現代喜劇「萩大名」は、大きな意味があったのです。
こうしてみると狂言と現代喜劇を縦の時間軸でつなぐ堺アートプロジェクトの試みは、演劇や文化の比較というだけでなく、演劇が社会にどう向き合ってきたかも見せてくれただけでもなく、具体的な現代社会の問題も見せてくれる結果にもなりました。ただ演劇をエンターテイメントとして消費するだけでなく、問題意識を喚起し問いを突き付ける芸術体験を私たちはしたのです。
これまで能舞台や狂言、現代喜劇に縁のなかった人にも、芸術への扉を開いた今回の試みは、今後も続けるべきものでしょう。
大和座狂言事務所
住所 吹田市千里山東2丁目3-3
Tel:06-6384-5016,Fax:06-6384-0870,090-3990-1122(事務局)
堺能楽会館
住所 大阪府堺市堺区大浜北町3-4-7-100
最寄り駅 南海本線:堺駅
電話 0722-35-0305
堺アートプロジェクト
E-mail:sakaiartproject@gmail.com
FAX:072-334-5456
Theatre Group GUMBO